本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - ロマネスク修道院(3) -


<クロ・ド・ヴ―ジョ>
 <修道院と葡萄畑>は私にとって、ひとつの大きなテーマです。でも読者の皆様には退屈極まりないかと存じますが、ちょっと大袈裟にいえば、古き時代に、それを巡る考証の面白さに引きずりこみたい、これが、いささかしゃしゃり出た感のある私としての抱負ということで何卒お許し願いたいと存じます。
 30年以上前に『シトー会修道院(The Cistercians ―Ideals and Reality―)』(ルイス・J・レッカイ、Louis J.Lekai)という大著が刊行されました。それから暫くして古書展でその本を偶然見つけたのですが、こんなタイトルの本は誰も関心がないだろうと思ったのが間違いで、ぐるっと一回り本を眺めてからそこへ行くと、その本がないのです。たった今売れてしまったとのこと。前回(vol.48をご参照ください)の失敗をまたも繰り返してしまいました。愛書家の執念というか、本への関心の高さは誠に不思議で面白いものです。
 さて、ワインは修道士たちが僧院生活を営むに欠くべからざる重要な要素であります。葡萄園が設けられ、丹念に維持され、条件のよい気候風土のもとに、シトー会修道院では葡萄畑が可能な限り拡大・拡張されていったのです。シトー会修道院は、フランス革命まで、フランスにおける良質なワイン生産者となり、またそれを維持してきました。そしてその中でも最高の葡萄園こそは、ブルゴーニュ地方のあの世界的に有名な<クロ・ド・ヴージョ(Clos de Vougeot)>であったのです。この<クロ・ド・ヴージョ>を含めた葡萄園が、12世紀初期にはシトー会修道院を豊かなものにしていきました。
 1098年の枝の主日(復活祭直前の日曜日)に、シャティヨン・シュール・セーヌの近くのモレームの大修道院を離れた修道士ドン・ロベールは、ブルゴーニュ地方のディジョンの南20キロほどのところに位置するシトーの森の中の沼沢地の修道院に引きこもり、漸く簡素と清貧の裡に静謐を見出したのです。そこに現れてくるのがワインでした。禁欲によってワインを断つことは可能であったから、飲み物として供するワインというよりは、ミサをあげるために不可欠な赤ワインをつくる必要に駆られたのです。ここでは修道士たちの生活は「オラーレ・エ・ラボラーレ(Orare et Laborare,祈れ,そして働け!)」という2つの行動規範を軸に戒律で厳しく定められていました。仕事を充分に成就することも、厳しい戒律の一環でした。
 しかし、シトーの沼沢地は日当たりの良い傾斜地を好む葡萄の栽培に適していませんでした。そこで、修道士たちは、修道院の傍を流れるヴージュ(la Vouge)と呼ばれる川を遡り、ピノ種の葡萄の栽培に適したヴージョ村(Vougeot)の丘に辿り着いたのでした。当時、この丘は栗の林をいただく、牧草地と未耕作地でありました。貧しい修道士たちのために、匿名の人物が3ヘクタールほどの土地を寄進してくれました。以降、近隣の領主たちが競って土地を寄進し、やがてシトー修道会はディジョンからムルソーにいたる見事な葡萄畑を数多く所有することになりました。そしてシトー会の修道士たちは、葡萄の品種改良や、栽培方法の改善に努めるかたわら、広大なワイン醸造場を建設したのです。このようにして<クロ・ド・ヴージョ>のほぼ中央に現存する醸造場は、1116年から1160年にかけて建設されたもので、4基の巨大な木製の絞り器などを備え、実用性を重視した簡素で機能的な建物になっていったのです。この<クロ・ド・ヴージョ>の名前は、1164年の教皇アレクサンドル3世の勅書の中で初めて古文書に登場してきます。
 <クロ・ド・ヴージョ>が現在の50ヘクタールほどの広さになったのは、13世紀から14世紀の間のことと推定されます。そして、1551年、シトー会修道院の第48代修道院長ドン・ロワジエは、醸造場の全面改造とルネサンス様式の城館(シャトー)の造営を命じました。以降、<クロ・ド・ヴージョ>は、その銘酒のゆえに、教皇や王侯貴族たちの賞賛の的となっていきます。“クロ(Clos)”とは、周囲を壁で保護した葡萄畑のことです。壁による保護の目的は、領主が聖職者であろうと世俗の人であろうとこの土地は領主の所有だとはっきりさせておくこと。また収穫後には家畜を畑に放すことが認められていたので、葡萄畑に入りこませないようにするためでした。ブルゴーニュ地方では他にも効用がありました。それは畑にある石を拾い集めて壁をつくるので、畑から石を取り除けることです。コート・ドール地域のような丘陵の斜面には径の大きい石が溢れていました。他にも、微気候面での効果があります。つまり石壁は風をさえぎるし、春や夏、日射しさえ豊かなら日中に蓄熱して、蓄熱を夜間に一部を放熱する。それが凍結の影響を減殺するし、葡萄の実の成熟を一層好ましいものにするのに役立ったのです。
 シトー会の修道士たちは年々改善してゆく栽培技術を<クロ・ド・ヴージョ>で実践していきました。先ずは、ローマ時代からの旧習だった混栽の放棄を決めました。混栽というのは葡萄を果実樹(梨、桜、胡桃の樹など)と混ぜて栽培する手法で、果実樹の幹や枝に葡萄の蔓を這わせることもあります。この栽培法は陽光に溢れる地中海沿岸では葡萄の成育をさして妨げませんが、ブルゴーニュ地方では葡萄の実を日陰に置き過ぎて、成熟を抑制する羽目になってしまいます。それだけではありません。混栽した果実樹も土壌中のミネラル成分を吸収するので、その分だけ葡萄から大切なミネラル分を奪うことになります。この現象が理論的に証明されるのはよほど後のことになりますが、中世という時代にシトー会の修道士たちは既に気づいていたのではないでしょうか。ブルゴーニュ公国のフィリップ勇胆公が1366年に、「“クロ”より葡萄の樹を損なう胡桃その他の樹を引き抜き、除去すべし」と命令したのです。
 こうして、<クロ・ド・ヴージョ>は酒質の大変高いワインを醸造していきました。優秀な葡萄栽培・ワイン醸造技術に、更に細心の注意を払ったアルコール発酵が加わることになります。これは今も<クロ・ド・ヴージョ>の感動的な大きな圧搾機の物語っているところです。この<クロ・ド・ヴージョ>をはじめブルゴーニュ地方の“クロ”が当時のフランスのグラン・クリュ(特級)を全て醸造していて、酒質が高いものの、酒齢が非常に若いうちにも飲めるワインでした。その大部分が今ではプルミエ・クリュ(1級)かグラン・クリュ(特級)に指定されているのは、こうした“クロ”が何世紀にも亘り細心の配慮を蓄積してきた明白な証でしょう。<クロ・ド・ヴージョ>のワインのすばらしさはこのようなシトー会の修道士たちが熟練の極みともいえる醸造技術をもって管理してきたことにあります。私たちが今日口にするワインには、こうしたシトー会の修道士たちの叡智がひと雫入っているのです。
 アーサー・ヤングはその著書『フランスの旅』(1787~89年)でこのように述べています。「ニュイの町に立ち寄って、この地方の葡萄畑のことを勉強することにした。フランスはおろかヨーロッパ全土に知れ渡った葡萄畑だ。<クロ・ド・ヴージョ>を見てみると、広さ100ジュルノーの石壁で囲まれた畑で、シトー会修道院の持ちものである。修道士たちの選んだ場所の良し悪しは、私たちには永遠にわからない。だが、その領有する場所を見れば、彼らが修行にかかわる事物に対していかに私心のない眼力をもっていたかが分かる」と。
 しかしながらフランス革命によって、1790年2月13日、<クロ・ド・ヴージョ>を含むシトー会の大修道院ならびにその付属施設は全て没収され、国有財産になってしまうという憂き目に遭います。その後<クロ・ド・ヴージョ>は多くの人手に渡り、危機的な状況に陥りますが、1889年、競売によって建物と葡萄畑を入手したレオンス・ボケなる人物が、1891年に建物の修復に着手しました。城館(シャトー)の荒廃を防いだ彼は、1913年城館の前に埋葬されました。フォントネー修道院を復元したエドワ―ル・エナール同様にいつの世でも救い主は現れるものです。<クロ・ド・ヴージョ>は、その後、コート・ドール県に譲渡され、次いでエティエンヌ・カミュゼの手を経て、1944年の末に地元の数家族からなるグループの手に渡りました。この所有者グループは、99年の期限付きで<クロ・ド・ヴージョ>の城館を「利酒騎士団(ラ・コンフレリー・デ・シュヴァリエ・デュ・タストヴァン、La Confrérie des Chevaliers du Tastevin)」の手に委ね、現在に至っています。
 今日、<クロ・ド・ヴージョ>の50ヘクタールほどの特級畑は細分化され、相続と分割を繰り返してきた結果、80名あまりの所有者がひしめいております。このことはいささか判じものめいていますが、シャトー・ラフィットに80名余の所有者がいて、誰もがその麗しい名称を使う権利をもっていると想像してもらえればいいと思います。
 ところで、フランス語で「レ・トロワ・グロリューズ(Les Trois Glorieuses)」といえば、何よりもまず1830年の7月革命を成功に導いた「栄光の3日間」のことを思い出すでしょう。しかし、この「栄光の3日間」という言葉がブルゴーニュについて用いられる場合には、銘醸ワインの里、コート・ドールを舞台にして、毎年11月の最終の土・日・月曜日の3日に亘って繰り広げられるワインの祭典の開催期間を指します。第1日目の土曜日には<クロ・ド・ヴージョ>の城館で「利酒騎士団」の例会が開催され、盛大な祝宴が執り行われます。この城館は1949年に歴史的記念建造物に指定されました。
 かくして、シトー修道会の簡素さから徐々にかけ離れていったこの城館は、現在の呼び名の通り“シャトー”となりましたが、領主の居城にありがちな威圧感はどこにも見られません。丘の中腹にたつこの城館は地面から生えているようにも見えます。城館の屋根は地面と同じ色で葺かれています。どっしりとしていると同時に、優美な、一篇の夢物語を秘めているこの建造物は、生真面目でいながら冗談好きなブルゴーニュの気質を象るもののように映ります。この地の自然の賜物である石と森とが、このようなブルゴーニュの気質の大半を育んできたように思えてなりません。
         葡萄の樹の父、ノアにより
         酒の神、バッカスにより
         葡萄栽培者の守護聖人、聖ヴァンサンにより
         われわれはあなたを「利酒の騎士」に叙する
との、ありがたい言葉が聞こえてきそうな気がいたします。



 


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