本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
懐かしい神戸の街(3)
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今年は神戸開港150周年(1868(慶応3年)-2017)を迎え、歴史を振り返ると共に更なる神戸の発展を願って、いろいろな記念行事が催されております。私も機会があれば訪れてみたいと思っています。 さて、神戸というと想い出すのは、私の大好きな須賀敦子さん(1929-1998)の著書『トリエステの坂道』(1995年刊)です。 ![]() ![]() 「たとえどんな遠い道のりでも、乗物にたよらないで、歩こう。それがその日、自分に課していた少ないルールのひとつだった。サバがいつも歩いていたように、私もただ歩いてみたい。幼いとき、母や若い叔母たちに連れられて歩いた神戸の町とおなじように、トリエステも背後にある山のつらなりが海近くまで迫っている地形だから、歩く、といっても、変化に富む道のりでさほど苦にならないはずだった。地図を片手に、私はまず市の中心部をめざして坂を降りはじめた」との文章が先ず思い浮かびます。そして、「なぜ自分はこんなにながいあいだ、サバにこだわりつづけているのか。二十年前の六月の夜、息をひきとった夫の記憶を、彼といっしょに読んだこの詩人にいまもまだ重ねようとしているのか。 ![]() 更に、トリエステの風景を、神戸を思い浮かべつつ次のように描写しております。「丘から眺めた屋根の連なりにはまるで童話の世界のような美しさがあったが、坂を降りながら近くで見る家々は予想外に貧しげで古びていた。裏通りをえらんで歩いていたせいもあっただろう。時代がかった喜劇役者みたいに靴の大きさばかり目立つ長身の老人が戸口の階段に腰かけ、合わせた両手をひざの前につきだすようにした恰好で、ぼんやりと通行人を眺めている。車はほとんど通らない。軽く目を閉じさえすれば、それはそのまま、むかし母の袖につかまって降りた神戸の坂道だった。母の下駄の音と、爪先に力を入れて歩いていた靴の感触。西洋館のかげから、はずむように視界にとびこんできた青い海の切れはし」と。 ![]() ところで、私がボルドーへ留学する前に、ある御仁のご紹介で当時上智大学長であられた素敵な紳士ウィリアム・ジョセフ・カリー先生(米国。カトリック司祭。比較文学者・英文学者。上智大学名誉教授。2011年に瑞宝重光章を受章。1935- )と中目黒のフランス料理店でお会いするという栄に浴しました。お会いするなり、 ![]() 実は、カリー学長が比較文化学部長の時に、須賀敦子さんを教授として迎えられたとのことで、須賀さんに纏わる慈愛に満ちた楽しいお話を、逸話を交えながらいろいろお聞かせいただき大感激したことを懐かしく思い出します。「須賀さんの会話は魅力的で、少しかすれた、しかし輝きのある声とその率直な語り口で、いろいろ議論もしましたが、時に茶目っ気もあって、とても素敵な女性でありました」、そして「須賀さんはイタリア人以上にイタリア語に精通しておられた」ともお話しされていたことが強く印象に残っております。須賀さんご自身も本の中で「イタリア語というのは自分のための言葉ではないかと思えるほど性に合った」と書いてあります。やはり天性の語学の達人だったのでありましょう。ただ、その時のカリー学長のお話が、イタリア語だったか、イタリア文学だったか、それともイタリア文化だったのか、ちょっとそこら辺の記憶が曖昧なのですが・・・、恐らくそれらを全てひっくるめて称賛されたのではないかと思います。 ![]() (上記文章は、当時の日記や15年前の記憶を辿りつつ綴ったものであることを申し添えます)。 後日、カリー学長より直筆のご丁寧なお手紙を頂戴しました。お手紙の内容に感動すると共に、その封筒はお手製のもので内側にはワインのラベルが貼ってありました。ボルドー留学を前にして、私はその細やかな優しいお心遣いにまたまた感激してしまったことを覚えております。今も私の大切な宝物です。 今年6月にはウィリアム・ジョセフ・カリー先生の司祭叙階50周年御祝いの懇親会が、上智大学で盛大に催されたそうです。いつまでもお元気であられますことを心からお祈り申し上げます。 それではこれから懐かしい神戸の店巡りを続けます。今回は西洋料理とがらりと変わって、神戸の味の神髄、穴子寿司についてご紹介したいと思います。穴子というと、吉田健一氏の「穴子をたべるだけでも神戸に行く価値がある」の文章を思い浮かべます。確かに、穴子は江戸前でも上方でも旨いのでありますが、神戸の穴子といえば、元町の<青辰(あおたつ)>の穴子寿司を真っ先に思い出します。<青辰>は、神戸開港の頃からつづく老舗で、賑やかな元町通りの凮月堂裏のちょいと先の露地を東へ入った左側にありました。 私の『食べ歩き帖』によると、「初めて<青辰>を訪ねた時はお昼前であったのに既に売切れ。「もう火を落としました」と言われて、ニベもなく断られてしまった。後日開店と同時に着き、やっと味わえた。それもその筈、朝9時に暖簾を出すが、大抵出したとたんに売り切れて、その日はもう仕舞になるという。 ![]() メニューは「巻」、「箱」、「盛り合わせ」、「ちらし」の4種類だけ。この日、女房は「ちらし」、小生は「巻」を食した。期待通りの旨さであった。大満足!でも、隣の若い女性客は「盛り合わせ(巻と押し寿司)」を頼んでいたが、押し寿司から食べようとしていたら、おやじさんから「巻から食べてくださいっ!」と一喝されて吃驚していた。 ![]() 私の『食べ歩き帖』には店のマッチを切り取って記念に貼ってあります。今やマッチは日常生活から遠い存在になってしまいましたが、その図柄を見るだけで夫々の店が懐かしく思い出されてくるから不思議です。私は紙巻タバコを大学生の一時期吸っていましたし、恰好をつけて紳士気取りで葉巻やパイプをふかしていたこともありました。あのマッチを擦り、燃え尽きる束の間の、しかし深い一時。硫黄の残り香が暖かくて懐かしい。兎に角、マッチの炎は格別な想いがしました。この感慨は久々に見るいろいろなマッチの図柄のせいなのでしょうか・・・。 マッチ箱の蒐集で思い出しましたが、中学・高校時代に勉強部屋の壁の桟の上に洋楽のレコードのジャケットをずらっと並べ掛けていました。あの時代はこのような些細なことがひとつの楽しみであったのでしょう。今のワイン・エチケット(ラベル)の蒐集に繋がるのかもしれません。 なお、『食べ歩き帖』にはその他の神戸の店として、<エスカルゴ>(フランス料理、閉店)、<北野クラブ>(フランス料理)、<ラ・コート・ドール>(フランス料理、閉店)、<ドンナロイヤ>(イタリア料理)、<ベルゲン>(イタリア料理、閉店)、 ![]() ただ、『食べ歩き帖』には書いてありませんが、ワイン仲間に何回か連れて行って貰った、今では伝説のレストランといわれる神戸・北野の<ジャン・ムーラン>(フランス料理)をこのまま素通りするわけにはいかないでしょう。 ![]() かつて歩いた神戸の街やお気に入りの店をこうして訪ねるということは、人と人との出会いと同じようにそういう一瞬が永続しないから却って素晴らしくまた懐かしいと感じるのかもしれないと、この駄文を書いていて思うようになってきました。 追記 今回の『トリエステの坂道』を機会に、『ミラノ 霧の風景』、『コルシア書店の仲間たち』、『ヴェネツィアの宿』、『ユルスナールの靴』等をじっくりと読み返してみました。そこには須賀敦子さんご自身の人生と、そこで出会った人々の像、それを巡る社会や思想、背景にあった事物、そして歴史や自然から成っていて、それが幾層にも重ねられ生き生きと描かれていることが改めてよく分かりました。何か懐かしさを覚える文章の手ざわり感、回想的エッセイとでもいうのでしょうか、その洗練された美しい旋律のような文章に魅せられ、再び深く心を打たれました。戦前のブルジョワジーの家庭で育ち、大変な知力と大変な蓄積された教養の持ち主であり、世界の多様性に向かって大きく開かれた感性をもっていた、須賀敦子さんのような日本女性がおられたことをとても嬉しく誇りに思います。そこには日本の伝統と西欧の教養の独特の結びつきがあったように思えてなりません。 60歳の半ばで信仰を題材にした初めての長編小説の構想を得て取り掛かった『アルザスの曲りくねった道』(vol.78をご参照ください)が、ほとんど入口のところで病魔に筆を奪われて未定稿に終わってしまったのは誠に残念なことであります。 早や来年は須賀敦子さんの没後20年になります。豊かで、品があり、時には激しさを秘め、静かに深みを湛える、須賀さんのもっていたあのゆったりとした大きさが偲ばれます。須賀敦子さんの死が遠くなるほどに、エッセイストとして書き残した文章がいよいよ強く心に迫ってくるのを感じてしまいます。 「生きることほど、人生の疲れを癒してくれるものは、ない」(ウンベルト・サバ、須賀敦子さん訳) 「ぐっすりとねむったまま生きたい/人生のやさしい騒音にかこまれて」(サンドロ・ペンナ、須賀敦子さんが訳した最後の詩人) ![]() |
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