本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

大阪の思い出の味(4)

<大阪のうどんのダシ>

 今まで3回に亘って「大阪の思い出の味」について綴ってきましたが、庶民の味の代表である<うどん>について語らねば片手落ちだと、大阪のおばちゃんたち(失礼!)からお叱りを受けそうですので、先ずは<うどん>のお話から始めてみます。
 さて、<うどん>というと大阪に軍配が上がりそうですが、<蕎麦>はいまひといきで、<蕎麦>は矢張り東京だと思います。これは人それぞれの好みにもよることで、大阪、東京のどちらの味がすぐれているのかは一概に比較しがたいかもしれません。でも、昆布とかつお節のダシのきいた<うどん>は、まさに大阪の味でありましょう。大阪人は東京のように醤油の色の出すぎたのを嫌いますが、それは播州産の極上の淡口醤油があったからなのではと思ってしまいます。関西の味は<うどん>をはじめ概して淡白です(vol.164をご参照ください)。関東地方は土が黒く山は高い。それに対して関西は白砂青松であります。関東は油絵の境地、関西は日本画の色彩 ― 料理もまたしかりといった御仁がおられたとのこと。けだし名言でありましょう。概して関東は源氏風の男性的味覚であるのに対して、関西は繊細な平家風の女性的な美味といっていいかもしれません。
 ところで、私が大阪の<うどん>を初めて旨いと思ったのは、道頓堀の中座の隣にあった昭和21年創業の「今井」という小さな店でした。関西に住んでいた時に気に入って何度通ったことでしょう。私は<蕎麦>に比べると、それ程<うどん>が好物というのでもないのに、兎に角、ここの<うどん>は旨かったのであります。<きつねうどん>をはじめ<かちん鴨うどん>、<よなきうどん>、<しっぽくうどん>等々。油揚げ一枚にしても<きつねうどん>には人情を感じてしまいます。「今井」も当然ダシへのこだわりがあって、北海道産の天然昆布と九州産のさば節とうるめ節を使ったダシはしっかりとしたコクと旨味をもちながら、上品な薄味に仕上がっておりました。“ダシは鮮度が命”というこだわりから、決してつくり置きはしないとのこと。<きつねうどん>にして30杯分ずつのダシを一日に何度もつくるといいます。そんなダシに、やや太めのコシのある自家製麺がよく合います。そして、<うどん>の美味しさは勿論のこと、「今井」のおかみさんの人当たりの良さとやわらかい大阪弁がまた心地良いのであります。

 今日では、「今井」といえば<うどん>ですが、戦前は同じ場所で今井家の5代目が「西洋楽器店」を営んでいたのです。当時は道頓堀ジャズの時代でありましたが、次第に軍事色が強まり金管楽器販売禁止という悲惨な末期を迎え、5代目はついに「西洋楽器店」に見切りをつけて、新たに<うどん>を始めたというのですから、その変わり身の早さには驚いてしまいます。でも、何故に<うどん>に転じたのでしょうか・・・。6代目になると大阪は神武景気を追い風に急膨張し、「今井」もその波に乗って急成長していったようです。そのもっと以前の4代目までは「芝居茶屋」を営んでいたともいわれていますから、今井家はなかなかユニークな家系です。その時代時代の暖簾を守った粋な人たちであったのでしょう。道頓堀の喧騒の中で、以前はひっそりとした佇まいでしたが、今や8階建ての本店ビルを構え、一段と活気を見せています。当初の贔屓筋には、小説家・詩人の壷井栄(1899-1967)をはじめ歌舞伎役者、俳優、講談師そして漫才師などの有名どころが名を連ねていました。
 大阪にはもうひとつ、代表的な<うどん>が忘れられません。 それは御霊(ごりょう)神社の裏の「美々卯(みみう)」です。因みに、大阪の神社というと、キタのお初天神にしても、ミナミの法善寺にしても、その境内が一種の盛り場となる慣いがあるようで、御霊神社界隈もまた食道楽の街でありました。御霊神社は「御霊さん」と呼ばれる北船場の氏神だそうです。ここには「梅月」の天ぷら、腰かけ天ぷらの「天寅」、まむしの「現長」などがあって、かつては“食い倒れ”大阪の面目躍如たるものがあったようですが、戦後は寂れてしまい、<うどんすき>の「美々卯」が名声を残しているにすぎません。
 「美々卯」は、もともとは泉州・堺に200年余つづいた料亭でしたが、いつの時代か長年の料理技術を活かして蕎麦屋に転じ、<ざるのあつもり>をウズラの卵の入ったツユで食べさせるという<うずらそば>なるものを売りにして好評を博し、大阪を代表する名物になりました。更に戦後、「辻留」へ修行に行っていた店主薩摩卯一が、現在の地で創作の<うどんすき>を始め、これがまた大阪人に大いに受けたのでした。先ず、<うどん>の打ち方に秘伝があるようで、太目で、ねっとりとした艶があり、いくら煮ても、とろけて汁を濁すようなことはありません。<うどん>のコシは、そのデリケートな粘り強さにあり、端的にいうと、茹でても茹でても、トロトロになってしまわぬ<うどん>のことです。<うどんすき>は<うどん>から先に炊き始めます。具には、カシワ、蒲鉾、生麩、湯葉、ヒロウス、穴子、車海老、子芋、椎茸、豌豆、人参、餅などが入ります。人参ひとつにしても、関西の文字通り真赤な京人参でないと鍋が冴えません。これらの具を平べったい銀鍋に、丹波焼の大徳利からダシを注いで炊きます。薄味のダシが素晴しい。朱塗りの小さな椀に銘々がとり、貝杓子でツユを入れ、レモンを絞って食べることになります。

 因みに、大阪で<うどん>といえば<きつねうどん>が王者格です。そして、この<きつねうどん>をおかずに飯を食う習慣がありました。<うどんすき>の発想はそこから生まれたのかもしれません。
 大阪で<うどん>をとお客を招じるなら、まず「今井」か「美々卯」へご案内すれば間違いないでしょう。今では「美々卯」の<うどんすき>は東京でも味わうことができます。
 でも、<うどん>の社会には、「たった一遍でいい。蕎麦に思いっきりツユをつけて食べてみたかった・・・」というような通人は居そうにもないとだけは分かるような気がします。如何でしょうか。“夜鷹そば ふるえた声の 人だかり”(黙阿弥の世話物)と“夜啼きうどん 湯気の中から つりをくれ”(曽我廼家の喜劇)を比べてみてください。頷けるかと思います。
 そして、今回は<うどん>に続いて<天婦羅>についても少し語ってみようと思います。というのは、私はてっきり天婦羅は江戸前と思っていましたが、実は、軽い綿実油(めんじつゆ)で揚げる天婦羅は大阪が発祥の地で、東京まで普及させたものであることを知りました。先に記した御霊神社界隈にあった「梅月」と「天寅」がその発祥の店だといいます。でも、天婦羅の本場はあくまで東京でしょう。江戸風のそれは重厚な油で焦げ茶色に揚げた、油気のきつい重たい味のものであったようです。小説家・随筆家の小島政二郎(1894-1994)は次のように語っています。「私の時代の天婦羅は、今のような色の白い、口当たりの軽い天婦羅ではなかった。もっと色の濃い、従って口当りも濃厚な、生の胡麻の油だけで揚げたものだった」と。銀座の老舗「天金」のご子息でもあった慶應義塾大学教授の池田弥三郎(1914-1982)も「天婦羅は胡麻の匂いのぐっとくる、こってりとしたのがいい。野暮といわれたって、その方が旨いのだから」と言い切っておられます。大阪では綿実油でさらっと色も薄く、衣も軽く揚げる。この大阪風天婦羅の創始者が、御霊神社から平野町御堂筋北入西側に移転して「梅月」を開いた青山政吉でありました。当初、平野町を中心に「東京天婦羅 梅月」と大書した屋台車を曳いて売り歩いたといいます。政吉がこの料理法を東京の天婦羅屋に奉公して覚えたものです。当時、<田舎揚げ(田舎豆腐を揚げた厚揚げ)>しかなかった大阪人は、<天婦羅>という名に惹かれ、大いに受けました。「梅月」の名物は特大の<かき揚げ>で、大人の頭くらいの大きさです。食べ出があって旨い。天つゆに大根おろしを入れることを考え出したのも政吉の手柄のようです。今はこの老舗も残念ながら閉店しまったらしい。
 当時安月給の身で大いに気に入ったのが、千日前にある「天丼の店」です。カウンターは6人掛けですが、いつ行っても満席どころか何人かは必ず店の前で待っています。海老の揚がる香りにひくひくと鼻が動いている人、人が食べているのをじろりと横目で見ている人、そして無表情に唯ひたすら席の空くのを待つ人と色々ですが、本当はみんな待ちきれないのです。ここは何しろ安くて旨い!当時、海老2尾の天丼が400円、赤だし50円と、私の「食べ歩き帖」に記してあります。メニューはこれだけです。昭和27年に創業以来、当時で80歳にならんとするご夫婦が現役で天婦羅を揚げておりました。親爺はというと天婦羅の油で磨き込んだような肌の艶をしていました。厚着していない薄い衣でカラっと揚げられた海老は目の前で油の中をくぐってきたばかり。「あの味をこの値で出してくれる」、まさに大阪の食い倒れの一翼を担っているような店でした。懐かしい!
 この大阪・千日前の「天丼の店」に比肩する天婦羅屋が東京・神田神保町にある、というかあった。それが天丼店「いもや」です。残念ながら今年3月末に半世紀以上の歴史に幕を下ろしてしまいました。連日、多くの常連客らが列をつくり、閉店を惜しんだそうです。私も神保町での古本漁りの途次に、「いもや 二丁目天丼店」にはよく立ち寄ったものでした。一時は7店舗もありましたが、店主が亡くなり、おかみさんもご高齢になられて店を閉じることになったそうです。天丼は、熱々ご飯の上に海老、イカ、キス、カボチャ、海苔のカラッと揚がった5点の天婦羅がのって、シジミの味噌汁も付いて650円(かつては500円だった)、海老天丼は850円。その旨さは勿論のこと、安さでも多くの人に愛され、人気を集めていました。清潔な白木のカウンターの目の前で揚げてくれます。職人も気持ちがいい。すごいのは「ご飯多め」、「少なめで」、「海老1本追加して」、「イカはいらない」といった細かい注文に伝票を使わずに受けて、間違いなく提供するのには吃驚しました。馴染みの白木のカウンターに座ると、夢中で古本漁りをしていた頃の若き日の思い出が蘇ってきます。

 今、神保町の古書店を訪ねる時は、江戸川乱歩(1894-1965)や井伏鱒二(1898-1993)らに愛された昭和6年創業の「天婦羅 はちまき」を専ら利用しています。ここの<穴子海老天丼>(1500円)が旨い。毎日、築地より身の大きな活き穴子を仕入れて手作業で開くため数量限定の逸品です。<天丼>(1000円)、<海老天丼>(1300円)もありますが、奥の座席で食べる天婦羅コース(3000円、5000円)もリーズナブルな価格であり、落ち着いて友人と語り合うにはもってこいであります。店主の青木さんはいつお会いしても気持ちがいい。

 でも、大阪の「梅月」や「天丼の店」そして東京の「いもや」や「はちまき」では味わえない、値は少々張りますが江戸前の天婦羅で忘れないのは、東京・お茶の水の「山の上ホテル」にある「てんぷらと和食 山の上」です。ここのカウンターに座って味わった天婦羅の美味しさはどれも格別でした。アスパラガスをはじめ薄衣で揚げた野菜の天婦羅も実に美味でした。勿論、海老天丼(3600円、ランチタイムは2800円)もあります。海老に加え、シロギス、かき揚げ、伏見唐辛子の天婦羅を盛り合わせたものです。この性格の異なる具でも、火入れが均一にされているせいか、統一感のある味わいに仕上がっています。料理長の職人技でしょう。上にかけるタレには甘口と辛口の2種類がありますが、私は辛口が好みです。揚げ油は小島政二郎や池田弥三郎が語る江戸前伝統の胡麻油のみを使用しているそうですが、豊かな香りと引き締まった辛口ダレの相性は見事しかいいようがありません。ここは山本健吉(1907-1980)、池波正太郎(1923-1990)、山口瞳(1926-1995)等の文化人が通った店としても知られています。

 それともうひとつ ― 東京の店ばかりで大阪の味とは外れますが ― 私が現役時代に、ある御仁に連れて行ってもらったお座敷天婦羅の草分けの店、神田・猿楽町の「天政」で初めて食した<銀宝(ぎんぽ)>の味が忘れられません。<銀宝>は一見海蛇のようで鋭いエラを持ち、身は穴子と鱧の中間のような魚ですが、姿からは想像できない、穴子よりもさっぱりしたその美味に感嘆したことを覚えております。作家の獅子文六(1893-1969)が贔屓にした店としても知られ、当時の新聞小説『自由学校』にも描かれています。

 「大阪の思い出の味」としては、いままで紹介してきた店のほかに蘆月(神なべ)、吉兆(日本料理)、瓢亭(夕霧蕎麦)、神田川(すっぽん)、アラスカ(西洋料理)、レストラン・いそむら(ステーキ)、与太呂(鯛ごはん)、正弁丹吾亭(小料理)、西玉水(鯨料理)、寿司常(鯵の棒寿司)、𠮷野寿司(大阪寿司)、ビストロ・ヴァンサンク(フランス料理)等々ユニークな店が沢山ありましたが、紙数の関係でまたの機会にゆずることにいたします。
 「大阪の思い出の味」を書き終わって、いま私の心に残るものは“時の移ろい”であります。あの時のあの食べものも、食べもの屋も食べものをつくる人も、そしてそれを一緒に味わった人もかけがえのない出会いであり、良き思い出でありました。それは私の瞼にいまもしっかりと焼きついています。
 
付記 前回(vol.165)記しましたロスチャイルド家が所有する世界最高峰のフランス・ボルドーの<シャトー・ラフィット・ロートシルト>の社長兼CEOに就任したジャン・ギョーム・プラッツ氏は、予定通り6月上旬に来日されました。プラッツ氏から直前に届いたメールによると、当初の滞在日数から短縮して僅か2泊3日となってしまい、それに往路は中国から、復路はポルトガルでの仕事が飛び込み、早朝に成田を発ってパリ経由でポルトガルへ向かわなければならないという厳しい日程で、残念ながら実質の活動はほぼ一日しか取れない状況になってしまったとのこと。社長兼CEOとしては初めての来日となりましたが、東京で重要顧客と次々に会見・会談をこなすのに実質一日という超過密スケジュールに、彼の経営者としての多忙ぶりが拝察できます。
 その中にあって、短時間でも日程を割いて私と会おうという優しい心遣いには感謝感激しましたが、却って彼の大切な初仕事の邪魔をしてはと思い、今回は敢えて私の方から会うのを遠慮することにしました。彼からは今年中に再来日できるかまだ定かではないが、次回来日の時はゆっくり会える時間を必ず取るのでとのメールを受け取りました。
 いつもプラッツご夫妻からは手紙やメールで心のこもった楽しいお便りが届き嬉しい限りです。長きに亘り親交を深めてきたことが報われます。むしろ次回は私の方からまだ訪ねたことのない憧れの<シャトー・ラフィット・ロートシルト>を訪問し、ご夫妻にシャトーでお会いできたらと思っております。楽しみはあとに取っておくことにします。プラッツ氏の今後益々のご活躍を心からお祈り申し上げます。