ボルドー便り vol.52

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - 余話:音楽と絵について(その1) -


Sports et divertissement:「スポーツと気晴らし」
 今回はワインを離れて“音楽と絵”についてお話ししてみようと思います。
実は最近ちょっと面白い発見をしました。それは《ボルドー便り》vol.28で紹介しましたエリック・サティの楽譜とシャルル・マルタンの絵による『スポーツと気晴らし(Sports et Divertissement)』の発想と、日本・西洋歌曲と竹久夢二の絵による『セノオ楽譜』の発想とが奇妙に似ていることに気付いたのです。何故そのようなことに気付いたかと申しますと、ある晩某音楽大学声楽科教授ご夫妻と食事をしています時に、偶々『セノオ楽譜』のことが話題になり、そこには日本・西洋歌曲の楽譜に夢二が表紙絵を描いているという存在を知ったからです。そして後日サントリーホールで開催された教授ご夫妻の主催する<大正ロマンのかをりの愉しみ>と題する“歌曲の夕べ”にご招待くださいました。そこに展示されていた竹久夢二による装画の施された『セノオ楽譜』を初めて目にし、すっかり魅せられてしまったのです。発想が極めて『スポーツと気晴らし』に似ていることに改めて驚きました。何よりも興味を惹いたのは、双方のつくられた時が日本の大正ロマンとフランスのアール・デコとほぼ同時代であるということです。果たしてこのような楽譜と美しい絵を合体させるという発想は、日本とフランスのどちらが先に思いついたのか大いに興味をそそられました。ひょっとすると『セノオ楽譜』の方が早いのではないか・・・、と。
 全くの門外漢である私が“音楽と絵”を語ることなど誠に恐れ多いことですが、素人なりに調べ、感じましたことをこれから少しく述べてみたいと思います。ご叱声を賜われば幸いです。
 先ずは、エリック・サティの楽譜とシャルル・マルタンの挿画による『スポーツと気晴らし』から述べてみたいと思います。
 エリック・サティについては皆様よくご存知のことと思いますが簡単に紹介しておきます。エリック・サティ(1866-1925)はノルマンディ(カルヴァドス県)のオンフルールで生まれました。オンフルールは、詩的なセーヌ河の流れと荒々しいイギリス海峡の波が一緒になる小さな港町です。この町に12歳まで住み、その後パリへやって来ました。でも、過去を振り返りたがらないサティは幼年期のことを殆ど語ろうとはしません。
 サティというと、すぐにその伝説的な奇行だの、諧謔趣味だの、作品につけた様々のおかしな題名だのといわれますが、そういったものをひとまず離れて虚心にサティの音楽に向き合った時、私たちの耳に聴こえてくるのはむしろ極めて簡潔で素朴な美しい音楽そのものの気がしてきます。サティは美しいピアノ曲が書かれた時代、フランス音楽・フランス芸術の黄金期に属していました。この時代には美しさをともなっていなければ芸術ではなく、ましてや革命的芸術でもなかったのです。サティの音楽が古ぼけてしまわずに、常に新しく感じ、またその反骨精神が損なわれていないのは、その音楽が生の状態で美しいからでしょう。いまだにTVのコマーシャルにも度々登場するのも、そのことを物語っているような気がします。また念入りに書き込まれ、粋な気取りに満ちた飾り文字、そして絵のような繊細な手描きの楽譜は、“めかしこんだ”サティそのものといえるでしょう。
 ジャン・コクトーを好きな人は、ごく自然にサティに興味を抱くようになると思います。
サティについてはコクトーの文章から美しい音が聞えるようにさえ思えます。サティはピカソと共にコクトーの師であったし、サティの名声はコクトーの筆によるところが大でした。「私の名誉はこの人物を崇め、その急変する不可解な性格を受け入れたことだ。彼を知ってすぐに、その正当な場所を割り当てたことだ」とコクトーが述べていることからも分かります。また「サティの小さな作品は鍵穴のように小さい。しかし、眼を近づけると全てが変わる」と、サティのもつ正確無比な小さき中に宇宙的な広がりを見せる、その美学をもの見事に言い当てています。画家キスリングはサティへの追想としてこう述懐しています。「ル・ドームやラ・ロトンドのカフェで出会うこともあった。座席にどっかりと腰を下し、山高帽を脇に置き、生きているというよりも何か夢うつつといった様子だった。いつも葉巻を離さず、気の向くままに煙の渦巻で不思議な模様をつくっては見とれていた。彼の手にかかると何でも芸術になってしまう」と。トレードマークのあの鼻眼鏡をかけ、山高帽をかぶり、硬いカラーをつけ、黒っぽいコーデュロイの服を着て、傘を手に持って、とことこ歩いているサティの姿が彷彿としてきます。
 またサティのことを考えると、人間いくつになっても新たに勉強をはじめることができるし、過去に頼らずに創造的であることができるのだという思いに勇気づけられます。というのは、サティは世紀末に既に「ジムノペディ」や「グノシエンヌ」などの有名な曲をつくって、作曲家としての道を確立していたにも拘わらず、1905年(39歳)に再び音楽学校に入学して対位法を勉強し直したからです。ドビュッシーなどの友人たちは、今さらやり直さなくてもと止めますが、サティは自分より若い教師について3年間学び優秀な成績で卒業しています。このようなサティの人間性にも魅かれます。
 そしてサティと日本人は心の中で何やら密かに通じるところがあるように思われてなりません。それはサティがより少ない言葉でより多くを語るところにあるように思います。あらゆる詩の秘訣、黙して語る。これはサティの詩の真骨頂であり、芭蕉の俳句にも通じるようにさえ思えてくるのです。
 というところで、いよいよ本題の『スポーツと気晴らし』に入っていこうと思います。
当時、フランスで最も優美な芸術とファッション誌『ガゼット・デュ・ボン・トン』(vol.28及び51をご参照ください)の出版者リュシアン・ヴォージェルがシャルル・マルタンの描いた画集“スポーツ”のために作曲する人を探しておりました。彼ははじめイーゴル・ストラヴィンスキーに白羽の矢を立てたのですが、ストラヴィンスキーが要求した作曲料は法外なものであったため諦めざるを得ませんでした。そこで友人の一人に推されてサティの名前が急遽浮かび上がってきたのです。ところが、サティに示された作曲料はストラヴィンスキーに示された額よりずっと安かったにも拘わらず、サティはそれでもまだ出版社が申し出た作曲料が不当に高過ぎると言って、自分で苦労して値下げ交渉をしてやっと作曲を引き受けたという、何とも風変りな逸話が残されています。サティは音楽によって儲けることなどは道義に反すると思っていたのかも知れません。そんな裏の事情を感じさせないぐらい、サティとマルタンの呼吸はぴったりと合っていました。キュービズムの影響を咀嚼しながらマルタンは“スポーツ”というこのモダンな習慣行動をいかにも楽しげに表紙と20葉の絵を描きだしているのです。片やサティの方は、全体の“序”にあたる<食欲をそそらないコラール>と20曲のピアノ小曲集による“美しい楽譜”を1914年に完成させました(巻末のスライド写真をご覧いただきながら読み進めてくだされば幸いです)。しかし、マルタンの絵とサティの曲ができあがり、いざ出版という時になって、思いもよらぬ第一次世界大戦が勃発し、『スポーツと気晴らし』の出版は1923年(サティの死の2年前)まで延期されてしまいます。そして、この詩画集ならぬ“音楽=画集”は、透かし筋入り上質紙に手彩色版画(ポショワール、ジュール・ソデ制作)として限定版125部、加えて1枚だけ絵を添えた普及版675部が出版されました。
 調べを進めていきますと、横開きにして楽譜に挿絵を付けた出版物は、当時の流行のひとつでもあったことが分かりました。1913年には絵本画家のアンドレ・エレとクロード・ドビュッシーによる『おもちゃ箱(La boîte à joujoux)』が既に出版されていたのです。しかし、『おもちゃ箱』がバレエの組曲だったのに対して、『スポーツと気晴らし』はいわば一連の音楽的クロッキー(croquis,速写)で、それぞれの曲の相互の関連性は希薄です。しかも挿絵に対しても、それほど密接な関係はあるようにも見えません。その意味でもこの曲集はとてもユニークなものといえましょう。このあたりは次回に述べます『セノオ楽譜』の日本・西洋歌曲と夢二の関連とは異にするところであります。それは『セノオ楽譜』は『スポーツと気晴らし』のように“スポーツ”という一連のテーマを決めて編纂されたものではなく、あくまで一曲ずつに夢二が絵を描いたものでピースものと呼ばれているからです。
 『スポーツと気晴らし』の性格については、「・・・非論理的どころか、これは心情や風景や行為を正確、かつ細心に、極めて密度が高く、しかも控え目で心の琴線に触れるように描写した絵画である。そしてそこから滑稽さが滲み出ているのだが、その滑稽さは詩に忠実に従っているだけでなく、まるで日本の浮世絵師のような正確さを示している。ダフェネオの予期せぬ返答を前にしたクリザリーヌの驚きもかくやと思われる(筆者注:1916年にサティが作曲した歌曲『ダフェネオ』の歌詞に、「ねえ、ダフェネオ、鳴いている鳥が果実になっているこの木はなあに?」「これはね、クリザリーヌ、鳥の木だよ」というのがある)。まさにこの『スポーツと気晴らし』は他に例を見ないものであって、サティの作品の中でも独自の地位を占めているのである。(中略)テンポの速い小曲からなるこの曲ひとつひとつが、私には最も優れた時代の“根付け”(netzukés)のように思えるのである。ごくわずかな細工だけで、それ以上のものを必要としない極めて凝縮した芸術品としか言いようがない」と、フランスの作曲家シャルル・ケクランの文章は言い得て妙であります。これらの小曲のあるものは数秒の演奏時間に過ぎませんが、それぞれ自己完結的で完璧であり、輪郭が極めて明瞭な感受性に支えられている気がします。
 最後に、この楽譜の冒頭に書かれたサティ自身による序文を見てみましょう。「この本は絵画と音楽という二つの芸術的要素から成り立っている。絵画の部分は線(トレ、traits)によって形成されるが、その線とは機智に富んだ言葉(トレ・デスプリ、traits d'esprit)でもある。一方、音楽の部分は点(ポワン、points)、つまり黒い点(ポワン・ノワール、points noirs=音符)によって描かれている。この2つの部分が一冊の中に結び合わされて、アルバムとしての全体を構成しているのである」。つまりサティはマルタンのデッサンを直接に情景描写しようとしているわけではなく、まず主題、あるいは単にタイトルをもとに言葉による支柱を組立てる。デッサンをもとに、サティが創作した小さな詩やお話を媒体にして音楽描写が行われる。要するにサティは音楽のためのシナリオを自ら作成したのであろうと思われます。それに対し、『セノオ楽譜』はまず曲ありきで、その主題に合わせて夢二が思い描いた表紙絵を作成したものと思われるのです。
演奏会やCDで『スポーツと気晴らし』をお聴きくだされば、なお一層のご理解をいただけるかと存じます。
 今回はワインとは全くかけ離れたテーマでしたが、敢えて関連づければサティは、“カルヴァドス(calvados,リンゴのブランデー)の産地、カルヴァドス県で生誕したこと。そして「私は葡萄酒をいちど煮えたぎらせて、フクシア(fuchsia,つりうき草)の汁で冷やしてから飲む」と言っているくらいですからワインについてはあまり詳しくなかったか、むしろさして好んでいなかったようにも思われますが、一方ドビュッシーの家で美味しいボルドーの白ワインを楽しく痛飲したとの記述も残されており、真意のほどは分かりません。それとサティは大変な愛書家でもありました。
 次回は『セノオ楽譜』とその表紙を飾った夢二についてお話しながら、『スポーツと気晴らし』との関係についても述べていきたいと思っています。

 


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