本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - シャトー訪問記(その6) -


<シャトー・オー・ブリオン>
  私事で恐縮ですが、4月に65歳の高齢者の仲間入りをしました。現在は立教大学池袋キャンパスに毎日通いながら、ボルドー大学につづき2度目の大学生活を楽しんでおります。この大型連休を利用して、友人のフランス人ご夫妻の案内でシャンパーニュ―アルザス―ジュラ―ブルゴーニュの葡萄畑をはじめロマネスク教会等を訪ねてまいりました。黄色の絨毯を敷き詰めたような菜の花畑が果てしなくつづく中を、2,000キロに亘る楽しい車の旅でした。いつか《ボルドー便り》でこの旅の様子をご紹介したいと思っています。
  さて、ボルドーでの<シャトー訪問記>をつづけてまいります。グラーヴ地区で忘れてはならないシャトーは「シャトー・オー・ブリオン(Château Haut-Brion)」でしょう。1855年の格付けの時に、メドック以外でただひとつ例外的に選ばれたのがこのシャトーでした。それもシャトー・ラフィット・ロートシルド、シャトー・ラトゥール、シャトー・マルゴーと並びグラン・クリュ第1級に格付けされたのです。それはこのワインが高値で取引されていたこと、そして何といっても由緒ある歴史を誇っていたからです。逸話には事欠きません。このシャトーの所有者あるいは関係した人々の名を挙げますと、時の大御所たちがずらりと勢揃いするから壮観です。それもフランス一国とは限りません。
  さあ、それではご案内いたしましょう。美しい葡萄園をもつ「シャトー・オー・ブリオン」は、1533年にボルドー高等法院長を輩出したボルドーきっての名門ポンタック家により創設されました。市場に出回りはじめた「オー・ブリオン」は、やがてイギリスに輸出され、フランスの“ニュー・クラレット”としてもてはやされました。それまでのボルドーの赤ワインはクラレットと呼ばれる薄い赤色で、ロゼワインのような色でした。それに比べポンタックのつくる「オー・ブリオン」は初めて葡萄の果皮ごと発酵させたので、今のボルドーワインのように深い色合いとなり、“ニュー・クラレット”と呼ばれるようになりました。
17世紀の畸人、サミュエル・ピープス卿が『サミュエル・ピープスの日記』の中で「ロンドンのロイヤル・オーク・タバーンで“Ho-Bryan”を味わった」と書いた時に、このワインはシャトー単独の固有名詞として海外で明記された最初のボルドーワインになったのです(vol.46をご参照ください)。
  「オー・ブリオン」の名声は17世紀後半になるとヨーロッパ中に広がることになります。これに一役買ったのが、宣伝の拠点としてポンタック家が1666年にロンドンに開店した「ポンタック亭(L'Enseigne de Pontac)」でした。料理人はボルドーのポンタック家から派遣し、ワインは勿論「オー・ブリオン」です。ピープス卿をはじめ、当時の流行作家のデフォー(『ロビンソン漂流記』)やスウィフト(『ガリバー旅行記』)等が常連客となり随分と賑わっていたといいます。そして思想家のジョン・ロック(『人間知性論』)は、「オー・ブリオン」に感動して実際にボルドーの畑まで訪れています。その随想録の中で、小石混じりの白い砂としか見えない畑から、どうしてこのようなすばらしいワインが生まれるのかと頻りに感嘆しています。またアメリカの独立宣言を起草し、後に第3代大統領になったトマス・ジェファーソンは大変なワイン通であり、駐仏アメリカ公使の時に当時まだ珍しかった瓶詰め(それ迄は樽詰め)の「オー・ブリオン」をフランス革命直前にホワイトハウスに送り届け、ワシントン、マディソン、モンローといった歴代大統領も愛飲することになったといわれています。ジェファーソンも「オー・ブリオン」の地を訪れています。
  フランス革命を経て1801年までポンタック家の所有はつづきましたが、ついに売りに出されることになります。その時シャトーを手に入れたのは、映画「会議は踊る」の舞台でメッテルニヒをはじめヨーロッパの各国元首を手玉にとったナポレオン時代の外務大臣、美食外交で名を馳せたタレイランでした。アントナン・カレームが飾りつけた豪華な料理に「オー・ブリオン」が華を添え、数多くの大宴会でヨーロッパの紳士淑女を酔わせつづけたことでしょう。
  その後何人かの銀行家の手を経て、1935年にニューヨーク最大の財界人として知られたクラレンス・ディロンの手に渡りました。ディロンはある霧の深い寒い日にリムジンに乗って、売りに出ていたサン・テミリオンの銘酒「シュヴァル・ブラン(Cheval Blanc)」を買いに行く予定だったといいます。しかし、そんな寒い日にボルドーの町から遠い道のりを走る気にならなかったディロンは町近くの「オー・ブリオン」が売りに出されているのを知って見に行き、自分に相応しい畑だと即決し購入したというエピソードが残っています。1953年にはクラレンスの息子のダグラス・ディロンが駐仏アメリカ大使(後にケネディ大統領時代の財務長官)に任命され4年間パリに駐在しましたが、アメリカに帰るようになった時、娘のジョアンが後を継ぐことになりました。その後ジョアンはルクセンブルグのシャルル皇太子と結婚しましたが、皇太子の死後にムシイ公爵と再婚し、ドメーヌ・クラレンス・ディロンを統括し、現在に至っています。毎年、私のところにパリに本拠地のあるドメーヌ・クラレンス・ディロンとボルドーの「シャトー・オー・ブリオン」から美しいクリスマス・カードが届きます。
  「シャトー・オー・ブリオン」がその名声を今日まで維持しつづけることができたのは、醸造の分野で、ボルドーで最も優れた専門家と定評のあるジョルジュとジャン・ベルナールのデルマス親子との出会いがあったからといわれています。現在はジャン・ベルナールの息子であるジャン・フィリップが3代目として活躍しています。ジャン・フィリップ・デルマス氏とは東京でお会いし話したことがあります。シャトー・ペトリュスの3代目であるエドワール・ムエックス君と一緒でした。その時はまさかエドワール君とボルドー大学で同級生になるとは夢想だにしませんでした。彼も大学で初めて出会った時はびっくりしたようです。巡り合いとは不思議で面白いものです。
  ボルドー滞在中に「シャトー・オー・ブリオン」と、兄弟シャトーである隣接した「シャトー・ラ・ミッション・オー・ブリオン」には何度も訪れました。ボルドーに留学して初めて見た葡萄畑は大学の直ぐそばにあった「シャトー・ラ・ミッション・オー・ブリオン」でしたが、憧れの「シャトー・オー・ブリオン」の畑と勘違いをしていたことvol.20で述べました。大学近くの住宅街と背中合わせに忽然と現れるこの2つの葡萄畑は、周囲の騒音をよそに凛とした静けさに満ちています。「シャトー・オー・ブリオン」はラベルに描かれた姿そのものであり、フランス、アメリカ、EUの国旗をはためかせて聳え建っています。
  「シャトー・オー・ブリオン」の美しいマダムとはボルドー大学の同級生でした。初めての授業が終わった後で、「車でお送りしましょうか」と親切に声を掛けていただいたことを今でも懐かしく思い出します。帰る方向が違っていたのは返す返すも残念でした。いつも微笑みを湛えた実にエレガントなマダムでした。彼女は私が銀座並木通りでワイン会を開催することを知って、ドメーヌ・クラレンス・ディロンの所有する「シャトー・オー・ブリオン」をはじめ「シャトー・ラ・ミッション・オー・ブリオン」、「シャトー・ラヴィル・オー・ブリオン」、「シャトー・ラ・トゥール・オー・ブリオン」、「レ・プランティエール・デュ・オー・ブリオン」、「バアン・オー・ブリオン」のラベルを綺麗な台紙に貼って、夫々の説明書と共に送っていただいたのには大変感激しました。彼女からは毎年美しいクリスマス・カードが届きます。
  ある日友人から学校の帰りに「オー・ブリオン」のシャトー訪問を急に誘われ一緒に行った時には、同級生のマダムが普段入れない醸造研究室までご案内してくださいました。確かその時にクローン栽培の先駆的な研究についてもお話を伺ったように記憶します。シャトー(城)そのものは勿論歴史の重みを感じさせますが、その中はさらにすばらしく、サロンには肖像画が飾られ、モロッコ革で装丁された見事な書籍が書棚にびっしりと並び壮麗そのものでした。カーヴには樽が美しく並べられ、ワインが静かに眠っています。醸造所にはボルドーで最初に導入した大きなステンレスタンクが何台も置かれ、清潔そのものでした。そこには伝統と革新の見事な調和がありました。
  近代化されたテイスティングルームで、「シャトー・オー・ブリオン」(2000年、2001年、2002年)を味あわせてもらいました。濃いルビー色に輝く「オー・ブリオン」は、さすが第1級シャトーの中で最も香りが高いといわれているだけあって、甘酸っぱいチェリーやカシスやプラム等の豊かで濃密な香りを漂わせていました。ビッグ・ヴィンテージの3本の「オー・ブリオン」は、どれも将来が楽しみな複雑で深い味わいをもった、すばらしいワインでした。特に、2000年は傑出していました。マダムのエレガントさと相俟ってワインも実にエレガントに仕上がっていたのが印象に残っています。
  「シャトー・オー・ブリオン」の白も、希少且つすばらしいワインです。かつてわが家に在日フランス大使館の外交官が訪ねて来られた時に、取って置きの1本、1985年ものをお出ししたところ、こんなすばらしい白ワインはパリでも滅多に味わえないと感嘆すること頻りでした。実に味わい深い、見事な白ワインでした。
  ボルドー滞在中に「シャトー・オー・ブリオン」でヴァンダンジュ(葡萄収穫作業)ができなかったことが唯一悔やまれますが、「シャトー・オー・ブリオン」への想いは尽きません。



 


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