本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - シャトー訪問記22


<ドメーヌ・アルマン・ルソー>
 ブルゴーニュについて、かのロッテルダムのエラスムス(1466-1536)は友人へこのように書き送っています。「ああ、かくも幸せなブルゴーニュよ・・・。ここは人類の母と呼ばれるのに充分値し、しかもこの母たるや、あのような母乳を血管に宿している」と。ブルゴーニュ地方といえばかつてヨーロッパきっての大公国でした。最も繁栄した当時は、今のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグをも含み、フランス王家と対立しながら中世の末期、ヨーロッパの中心の一つになっていました。この間の事情は、ホイジンガーの『中世の秋』に詳しい(vol.32をご参照ください)。このエラスムスの書翰はこの地方のワインにいかに愛着を寄せ、中世末期のヨーロッパ全域で最も重要視されていたかの証でありましょう。エラスムスはブルゴーニュ・ワインがお好きだったのです。
 さて、ブルゴーニュ、という言葉を発する時、私には、大きく、しかしゆるやかにうねる丘、輝くように燦々と降り注ぐ太陽、良く手入れされた牧草地と葡萄畑の姿を思い出さずにはいられません。丘のくぼみ、そして森や泉のほとりにある修道院や教会、ゆったりと流れる豊かな川等、いずれもブルゴーニュ地方の魅力を語って尽きることはありません。でも私にとっては何と言っても最大の関心事はワイン(葡萄畑)です。脱線しないうちに、ジュヴレ・シャンベルタン村に戻りましょう。
 ジュヴレ・シャンベルタン村、ここには特級畑の<シャンベルタン(Chambertin)>を含む600ヘクタールほどの葡萄畑があり、ブルゴーニュでは突出した広さを誇っております。ジュヴレ・シャンベルタンといいますと、まるでジュヴレでできたシャンベルタンというように、つまり、シャンベルタンがコミューン(村)で、ジュヴレがその葡萄畑のひとつであるかのように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。厳密な意味では、ジュヴレの村名ワインにはその名前にシャンベルタンを付け加える権利はないのです。何故ならば、<ジュヴレ・シャンベルタン>は単なる村名ワインで、本物の<シャンベルタン>の高貴さなど微塵もなく、ただごく普通の、良い、濃い赤ワインに過ぎないからです。つまり最上級のグラン・クリュ(特級)は、村の名前なしに葡萄の採れたクリマ名(Climat、ボルドーのシャトーにあたる葡萄畑で、ブルゴーニュの格付けはこのクリマ単位で行われます)だけで単に<シャンベルタン>と呼ばれます。ここには<シャンベルタン>をはじめとして全部で9つの特級畑があります。これに続くのがプルミエ・クリュ(一級)で、村の名にクリマの名を付して、前回述べた<ジュヴレ・シャンベルタン・クロ・サン・ジャック>が、これにあたります。一級畑は26あります。次に漸く<ジュヴレ・シャンベルタン>という村名ワインがきて、ここでもクリマの名が小さく付されることがありますが、かなり良いクリマでとれた葡萄だけを使っていることを示しています。単に<ジュヴレ・シャンベルタン>とあれば、その村のどの畑の葡萄を使ってもよいわけです。このような格付けに対するクリマ名の付け方は他のブルゴーニュの村にも見られることです。
 こうしたブルゴーニュの果てしない多様性は、クリマ毎にテロワール(Terroir、ワインは土地、気候、葡萄品種の3つの幸運な結合によりつくりだされています。このような条件の結合をフランス語でテロワールと称しています)が違うだけでなく、数ヘクタールのクリマを何人ものつくり手が分割して所有していることにも起因しています。これは主に大修道院所有の葡萄畑が、フランス革命の時に民間に払い下げられ、更に嫡出子すべての均等相続を定めたナポレオン法典によって土地の分割所有が加速されたためです。
 <シャンベルタン>はナポレオン(1769-1821)が愛したワインとして有名です。ナポレオンはどこへ遠征に行くにも<シャンベルタン>の樽を持っていかせたそうですが、このすばらしいワインを水で割って飲んでいたということが伝わっているのをみると、果たして本当に味が分かっていたのかどうか怪しいものです。それよりもむしろ同時代の人で、やはりこの<シャンベルタン>をこよなく愛したといわれるタレーラン(1754-1838)の次の言葉の方がより興味を惹きます。「かようなワインを出されたなら、グラスをうやうやしく手に取って、よく眺め、香りを嗅ぎ、グラスを置いて、それからじっくりこのワインについて議論なさるがよろしい」と。フランスの革命前には聖職にあって、革命期には国民議会議員、ナポレオン時代は外相となり、やがてナポレオンから離れ王政復古に暗躍し、往年の名画『会議は踊る』にも描かれた1814年のウィーン会議では、フランス代表として巧妙に列国を牽制した老練且つしたたかな政治家タレーラン。とりわけ、興味深いのは、ウィーン会議で、19世紀を代表する料理人アントワーヌ・カレームを従えて、列国の代表を招いてはその見事な料理で一物も二物もある政治家の腹をなごませ、敗戦国であるにも拘わらず交渉を有利にすすめたというフランスの“饗宴外交”を巧妙に演出したことです。ウィーン会議での料理の活用は料理とワインにまつわる長い歴史を象徴する出来事であり、ここでのワインに<シャンベルタン>が登場し、きっと大きな役割を果たしたことでしょう。この伝統がそのまま今日の「エリゼ宮」の“饗宴外交”に見事に継承されています。
 フランスワインとフランス料理、その魅力について語り出したらきりがありませんので、本来のドメーヌ・アルマン・ルソーの話に移ることにします。レストラン「レ・ミレジム」でのデジュネ(昼食)の後に、ここで味わった美味なる<クロ・サン・ジャック>をつくった、ドメーヌ・アルマン・ルソーの館を早速訪ねてみようということになりました。当時の日記を繰ると「応対に女性が出てきて、一家総出で赤クモダニを取りに畑へ行ってしまったとのこと。暫く待ってみたが、帰ってくる気配はなく、留守番の女性だけなので館の中の案内もままならかった。残念!!」と記してあります。やはりドメーヌを訪ねる時は予約していかないとダメですね。ドメーヌ・フィリップ・レミの館でマダムにお会いできたのは幸運としか思えません。そういえば赤クモダニは葡萄樹の葉に寄生し、葡萄の生育を妨げてしまうまさに害虫であり、暑くて乾燥した気候の時には被害が多く、最近益々頻繁に現れるようになったといいます。これは赤クモダニの天敵である捕食虫が殺虫剤によって自然界から消えてしまったためでしょう。
 このルソー家は歴史的にみてもブルゴーニュ・ワイン界で重きをなしてきたドメーヌのひとつで、最初に元詰め(Mis en bouteille à la propriété:「ドメーヌで瓶詰めされた」という記載は、ワインがそのドメーヌで収穫、醸造して瓶詰めされたものであることを証明し、品質を保証します)を始めたことでも知られています。現当主シャルル・ルソーのつくるワインは、ジュヴレ・シャンベルタン村で最も高名を馳せているひとつで、最高の地位にありました。今でも息子と共に大変優れたワインをつくりつづけています。特に、特級の<シャンベルタン>そして<シャンベルタン・クロ・ド・ベーズ>は模範的作品といわれ、「レ・ミレジム」で飲んだ<クロ・サン・ジャック>は、他の村のどの一級畑が背伸びしても届かないほどスケールが大きく、グラン・クリュ(特級)としか言いようのない逸品であるとまで高い評価を受けております。私たちはシャルル・ルソーに会いたくて葡萄畑まで出掛けてみました。しかし、残念ながら広大な葡萄畑の中で作業をしている彼を見つけることはできませんでした。でも、「<クロ・サン・ジャック>のラベルそのままの葡萄畑を眺めることができただけで大満足、大感激だった」と当時の日記に記してあります。
 ところで、アルマン・ルソーのつくるワインは、帰国後に銀座日航ホテル前の旧電通通りを挟んだ真向いにあるワインの老舗「ミツミ(三美)」で手に入ることを知り、暇があると出掛けては、無愛想だがワインに飛び切り詳しいオヤジさんとワイン談義をしながら好きな1本を購入してきたものです。ビルの6階には立派なワイン・カーヴを備えており、特にブルゴーニュ・ワインの品揃えは見事でした。あの頃は、銀座5丁目の洋書店「イエナ」と8丁目のワイン店「ミツミ」を訪ね、帰りに6丁目の交詢社ビルのバー「サンスーシ」のカウンターで杯を傾けるのが、私にとって幸せで優雅な一時であり、銀ブラの大きな楽しみでもありました。「イエナ」ではフランスをはじめイギリスやアメリカからの最新刊のワインの洋書が入手できたのです。ここのグリーンの包装紙も好きでした。いかにも銀座の文化の香り漂う粋な老舗が相次いでなくなってしまったのは何とも寂しい限りです。これも時の流れでしょうか。
 さあ、ジュヴレ・シャンベルタン村の次にあるのは、モレ・サン・ドニ村です。ここはちっぽけな村ながらすばらしい赤ワインとほんの少量の白ワインがあります。ことに赤ワインはスミレのかぐわしい芳香を放ち、飲むのが惜しいほどの華麗な色を湛えていて、彫が深くコクに満ちています。寿命も長く、丸みを帯びるよりも、プロポーションの良さが際立ってくるといった感じの熟成をみせてくれます。そして、この村の南隣にあって珠玉のような優美なワインを産するシャンボール・ミュジニという、何となく詩の女神、ミューズを連想させる名の村は、時間の関係で残念ながらモレ・サン・ドニ村と共に車から眺めるだけにして、私たちは一路、シトー派の修道院ゆかりのヴージョ村へ向かいました。クロ・ド・ヴージョについてはvol.82で既に述べていますので省略しますが、夕陽を浴びながら、大きな犬を連れた地元のご婦人と道すがらお話ししながら城へ向かった時の美しい光景は忘れられません。それとヴージョ村の唯一の白ワイン、l'Héritier-Gyot所有の<クロ・ブラン・ド・ヴージョ(Clos Blanc de Vougeot)>の畑に偶然出合ったことも幸運でした。
 ついついクロ・ド・ヴージョの見学に多くの時間を費やしてしまい、帰りの時間が近づいてきました。幸い、6月のフランスはまだ明るく、慌てて最後の目的地、名にし負うヴォーヌ・ロマネ村に向かいました。幻という名の雲につつまれて、あらゆる赤ワインの上に君臨し、世界の赤ワインの王座についている王の中の王、世界のワイン愛好家の垂涎の的、誰しも一度は味わってみたいと夢見るワイン、あの、<ロマネ・コンティ(Romanée-Conti)>とそれに寄り添う4つの大貴族ワイン、<ラ・ターシュ(La Tache)>、<リシュブール(Richebourg)>,<ラ・ロマネ(La Romanée)>そして<ロマネ・サン・ヴィヴァン(Romanée-St-Vivant)>の生まれる村です。さすがBさんは時間が押し迫っていたにも拘わらず、実に正確に<ロマネ・コンティ>の葡萄畑の真ん前に連れて行ってくれたのです。本で何度も読み眺めた通りの<ロマネ・コンティ>の有名な十字架が道端に立っているじゃないですか。そして紛れもなく囲いの端に“Romanée Conti”の文字がハッキリと読み取れました。そこから眺めた夕陽に輝く葡萄畑の美しかったこと!!ブルゴーニュにおける至上至高の葡萄畑であることが納得できました。
 次回はヴォーヌ・ロマネ村について更にお話をしたいと思います。




 


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