ボルドー便り vol.32

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - ボーヌ施療院を中心に「中世の秋」を旅する -



ボーヌ施療院
ボーヌ施療院

 今年も早や師走を迎えました。この一年間、駄文《ボルドー便り》にお付き合いくださいまして、ほんとうにありがとうございました。心から感謝申し上げます。
 さて、今回もボルドーからちょっと離れて、ブルゴーニュ・ワインの祭典の舞台となる<ボーヌ施療院(l'Hôtel-Dieu de Beaune)>を中心にお話をしてみようと思います。
 前回のボージョレ・ヌーヴォに劣らず大きな祭典が、毎年ブルゴーニュ地方のワインの中心地ボーヌ(Beaune)で開催されます。それが11月の第3土曜日をはさんで行なわれる有名な『栄光の三日間(Les Trois Glorieuses)』です。その中のメインの行事が、<ボーヌ施療院のワイン競売会(la Vente aux enchères des Hospices de Beaune)>です。私もボルドー留学時代に、この祭典に参加するため友人の車で妻と共に、遥々ボルドーからオーベルニュ地方の霧に煙るマシフ・サントラル(中央山塊)を越え、クレルモン・フェラン、リヨンそしてボージョレの葡萄畑を走り抜け、12時間かけてフランスを横断し、漸く目的地のボーヌに辿り着いたことを懐かしく思い出します。
 さあ、それでは今回の舞台となります<ボーヌ施療院(オテル・デュー)>を,ご案内することにしましょう。
ボーヌ施療院外観<ボーヌ施療院>の通りに面した外観は質素で、屋根瓦は青灰色のスレート葺きでいかめしく冷ややかです。その内部に、あの目の醒めるような光り輝く建造物(冒頭の写真)が見られるとは、外側からだけではとても想像がつきません。夜盗どもが跳梁跋扈していた中世の時代、このようなさりげない外向きの姿は防衛上やむを得ないことだったのでしょう。小さな入口から一歩中庭に入ると、誰しも驚嘆の声を上げてしまいます。何よりも驚かされるのは、長方形の中庭を囲む木造建築の屋根に葺かれた4色の施釉瓦が描き出す鮮やかな文様です。淡黄色、オリーブ・グリーン、赤煉瓦色、赤褐色の変化に富んだ鉤型模様をつらねて、きらびやかな緞帳さながら目の前にゆらめき現れるのです。それに屋根の構造も、品良く典雅、細やかで繊細、落着いた中に華やかさを感じさせる見事なものです。
次に、「貧者たちの間」に入ってみましょう。長さ7貧者たちの間2m、幅14m、高さ15m。天井は、いわゆる船底型というもので、その中途には横一文字の木製の梁が何本も両側の壁と壁を結んで並んでいます。天井の横木には、それぞれ2つずつ人頭、獣頭の小さな突起が突き出しております。その一つ一つが何ともユーモラスなのです。「貧者たちの間」は、文字通り、病に苦しむ貧しい人たちが収容されていたところです。病人たちは、天のドームを映すとも思える丸天井を仰ぎ、この梁のおどけた風な彫刻に時に目をやって、ほっとするような和み、一瞬病苦を忘れさせてくれる慰めを感じていたことでしょう。創建当時には祭壇いっぱいに高々と、初期フランドル美術の最大の巨匠ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの《最後の審判》の絵が飾られていたにちがいない・・・。
 この<ボーヌ施療院>は、当時ブルゴーニュ公国のフィリップ善良公のもとで大書記官を務めていた二コラ・ロランが1443年に着工し、8年の歳月をかけて1451年に完成したものです。まさにヨハン・ホイジンガの不朽の名作『中世の秋』に述べられている過酷な時代を生きてきた貧しい人々に、人間として最後の死に場所を提供すべくホスピスとして設立されたのがこの施療院だったのです。
 ここで注目すべきことは、爾来その運営費が寄進された葡萄畑からつくられたワインを競売にかけることにより賄われてきたことです。ワインは当初私的な取引で売買されてきましたが、19世紀の中頃から今日の競売形式に変わったといわれています。創建時よりコート・ド・ボーヌ地区を中心に550年以上に亘って葡萄畑の寄進が相次ぎ、現在施療院が所有する葡萄畑の総面積は60haに達しています。そしてこれらの葡萄畑からつくられるワインが、毎年11月の第3日曜日に競売にかけられ、その価格がブルゴーニュ地方のワイン価格の相場をリードするといわれるため、世界中のワイン関係者と愛好家が注目するところとなりました。競売には、伝統的に「蝋燭方式」が採用されており、小さな蝋燭の灯が燃え尽きるとともに、競りが終わります。そしてその収益は現在も活動をつづけている<ボーヌ施療院>の維持・活動費に充てられているのです。
 「いつの時代もいっそう美しい世界へと憧れるものである。混乱した現在への絶望と苦痛が深ま中世の秋(本:The waning of the Middle Ages)るほど、ますますその憧れは激しい。中世末期には生活の基調はきびしい憂鬱であった」と、ホイジンガの『中世の秋』第二章ははじまります。
より美しい生活への憧れはいつの時代でも、その遠い目標に達するのに3つの道を用意しているといいます。最初の道は現世を否定し、来世のみに望みを託する道です。第二は、この世界自体を改良して、完全にしていく道、中世ではまだ考えられもしなかった道です。
 そして第三の道は「夢」であります。この道こそ、中世の秋においてブルゴーニュ公の宮廷がこぞって求めていたところなのでありましょう。生活を美しい幻想によっておおいつくし、現実の苛酷な事柄を克服しようとする人のなせる道。そのために人を恍惚とさせるフーガを奏でるには、ある単純な主題、一つの和音が必要なだけと言いきっております。
 むろんそれを可能にしたのは、ブルゴーニュ公が一身に集めることのできた富のゆえでありましょう。そしてフィリップ善良公の傍らにあって常に公の代弁者となり有能な片腕となり、この困難な時代のブルゴーニュ公国を切り回し、公国の栄光を高めた人物こそが大書記官ニコラ・ロランであったのです。
 1410年、ロランは妻を失い、後添いとして名門伯爵家の跡継ぎのギゴーヌ・ド・サランを娶りまギゴーヌ・ド・サラン像す。1440年、二コラは既に60の坂を越え、栄光の絶頂期にありましたが、そろそろ自己の人生の終末を、ひいては永遠の救いについて考える時期にさしかかっておりました。そして徳の人と民衆から敬われていた妻、ギゴーヌ・ド・サランの献身的な協力により、1443年からボーヌ施療院という人々の目をみはらせる美しいモニュメント、「夢」の建設に着手したのです。この施療院は二コラ・ロランとギゴーヌ・ド・サランという一組の夫婦の「愛」の所産でもあったのです。施療院を訪れる者は今も、タイル張りの床のそこここに、この二人の紋章を組み合わせ、まわりを<Seule(ただひとりの)>の文字を囲んだ模様を足元に見ることができます。「ただこのひとりの人のために」、これが二コラ・ロランの愛する妻ギゴーヌ・ド・サランに寄せた思いの全てであったのでしょう。
現在もこの二人の名前の入った、<オスピス・ド・ボーヌ・キュヴェ・二コラ・ロラン>と<オスピス・ド・ボーヌ・キュヴェ・ギゴーヌ・ド・サラン>という2つの銘醸ワインがつくられており、毎年<ボーヌ施療院>のワイン競売会で高い評価を受けています。
 19世紀に祖国と民衆の愛を熱烈に謳いあげた歴史家ミシュレが大著『フランス史』の中で「愛らしくもワインの香るブルゴーニュ」と表現し、「そこには町々が紋章に葡萄の枝をあしらい、誰もが兄弟、従兄弟と呼び合うボン・ヴィヴァン(Bon vivant 良く生きる人、人生を楽しむ人)と楽しいクリスマスの国だから」と讃えています。
 クリスマスも近づいた年末の一時、ブルゴーニュ・ワインを傾けながら、今なお時空を越えて凛として存する<ボーヌ施療院>、そして過酷な時代であった<中世の秋>に暫し思いを馳せていただけましたら幸甚です。
少し早いのですが、どうぞ良いお年をお迎えください。




 


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