本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

シャトー訪問記(その32)


<シャトー・ラトゥール>
 私たちはシャトー・マルゴーを後にして、これから次なる訪問地サン・テステーフ村のシャトー・コス・デストゥルネルへ向かいます。予約時間が午後2時30分でしたので、マルゴー村から銘酒街道(D2)を北に6㎞ほどのところにあるレストラン「ル・リオン・ドール(Le lion d'or)」でゆっくりランチを楽しむことにしました。早々と昼前に店に着いてしまい、当日の一番乗りでした。 日本で予約しておいたので、お店を見渡せるいい席に案内してくれました。ここは友人のボルドーワイン輸入専門商社の社長が、ボルドー・メドックを訪ねた時には是非行ってみてくださいと薦められていた店です。昼になるとワイン瓶を片手に地元のヴィニュロン(葡萄栽培者)らしき人たちが次から次へ店にやってきて、あっという間に満席になってしまいました。如何に地元の人たちに愛されている人気の店であるかがよく分かります。私たちの席の横の壁にはワイン棚が拵えてあり、たった今訪ねてきたシャトー・マルゴーをはじめ、メドックの見慣れたグラン・クリュのワインがシャトー毎に棚一杯に収められていました。このワインは店のではなく、シャトーのオーナーたちが自分で飲むためにキープしているとのこと。
 ここはメドックの典型的な田舎料理を出すという。メニューから前菜の田舎風テリーヌそして主菜の猟鴨のコンフィ、ポイヤック産の骨付き仔羊のグリル、オントレコット・ア・ラ・ボルドレーズ(ボルドー風リブロースのステーキ)を夫々注文し、ワインは店の前の看板に書いてあった“本日の推薦ワイン”マルゴー村の<ラ・ダーム・ド・マレスコ2008年>(シャトー・マレスコ・サン・テグジュペリのセカンド)を主菜用のワインに選びました。 ボルドーでは店の推薦ワインとして、いいシャトーのセカンドをよく奨めます。リーズナブルな価格で美味しいからでしょう。グラン・クリュを奨めないところが奥ゆかしい。フロア係りの中年女性が手慣れた所作で抜栓してくれますが、ボトルはそのままデンとテーブルに置いたままで、儀礼的な味見などはこの店にはないようです。それだけワインに自信があるのでしょうし、全く気取りなんていうものがないのです。自分でグラスに注ぎ、香りをかぐ。<ラ・ダーム・ド・マレスコ2008年>は、マルゴー村のワインらしい、それなりにエレガンスと風格を備えた味わいで、店のお薦めに納得しました。そして料理はどれもとても美味い!40席ほどの店内は地元の人たちでいっぱいで、どのテーブルもワイワイガヤガヤと賑やかでいかにも楽しんでいる様子。年配の客が多いようにも思いました。この店の肌艶のよい太った親父が頻繁に回って、馴染にも一見の私たちにも等しく声をかけてくれます。私たちもマルゴー村のワインと田舎料理の醸し出す家庭的で心和む時間と空気に暫し酔いしれました。ここでは誰もワイングラスをぐるぐる回したり、目を閉じて香りに意識を集中したりしている人は一人もいません。ましてワインの香りやスタイルについて薀蓄を傾け批判したりしている人もいないように見受けました。暮らしに溶け込んだ料理とワインを只管楽しんでいる、そういう雰囲気でした。私たちの斜め前の席に座っておられた、日本を訪れたことがあるというご夫妻が、やおら自分たちがつくったワインだといって私たちのテーブルに瓶を持ってきて飲ませてくださいました。何処のシャトーなのか失念しましたが、土の香りを感じる、正にとれたての美味なる地酒でした。このワインとチーズのマリアージュをゆっくり楽しませて貰いました。このようにヴィニュロンと話し込める貴重な店でもあります。ここはレストランというよりか町の食堂といった雰囲気です。名物親父が極上の田舎料理をつくり、地酒のようなワインを飲む。そういえば、帰りに玄関先で親父と同じく胴回りの太くなったラブラドールレトリバーのような大きな犬が気持ちよさそうに床に寝そべっていたのを思い出しました。この店を訪れた人は知るでしょう。ボルドーが偉大な田舎でもあることを。ということで、いつまでも席にいて酔いの余韻を楽しんでいたい店でしたが、そろそろシャトー・コス・デストゥルネルの予約時間が迫っており、店をあとにすることにしました。
 ところで、ボルドーの銘醸ワインの味わいは重厚な交響曲にたとえられるように思います。 その妙なる調べに身を任せ、畑を「葡萄畑」たらしめている風土や人の営みに想いを馳せることができたなら、シンフォニーの感興は一層増幅することでありましょう。そのために「葡萄畑」を生み育むその土地の旅を続けることにします。好奇な眼(まなこ)と、記憶する鼻と舌、そして、フランスの古い諺 ―真相はワインの中にある― を旅の供に。
 さあ、これから銘酒街道(D2)を北上してまいりましょう。ボルドーを貫くジロンド河。その大河に沿うように走っている銘酒街道を。メドックの景観をなしているなだらかで、ごく低い丘の起伏があるだけの右を向いても左を向いても、ボルドーの、いやフランスの偉大な葡萄畑が広がるだけの農村風景を見ながら駆け抜けていきます。所々に農家や古びた建物や教会のある村、そして美しい邸宅のシャトーが点在するだけです。ここから世界の銘酒が生まれることを知っている者以外には退屈極まりない風景であるかもしれません。でも、私には何度訪ねても心浮き立つ景色です。17年程前に初めて訪れた時の興奮が甦ってきます。
 サン・ジュリアン村に入ると、街道の右手は木が生い茂った小山のようになっていますが、やや急な坂を上りきると、木陰から美しい建物が現れてきます。通りに面して立派な門構えがあり、前庭の巨木の陰にシャトーの建物が見えます。前庭は美しい花壇になっていますので、街道沿いのシャトーとしてはひときわ人目を惹きます。ここがシャトー・ベイシュヴェル(格付け4級。以下の数字は1855年の格付けを意味します)です。ここでひとまず車から降りて写真を撮り、裏手に回って懐かしいジロンド河の流れを見に行くことにします。河の水はいつもカフェ・オ・レ色に濁っていますが、この河が美味しいボルドーワインに貢献していると思うと濁り水もありがたく目に映ります。河岸にはジロンド名物の川エビを獲る男たちの小屋が建ち
並んでいます。それからシャトー・ベイシュヴェルの華やかさのために、見過ごされてしまいそうな、街道を挟んで真向いにあるのがシャトー・ブラネール・デュクリュ(4級)です。シャトーもラベルも地味ながら、シャトー・ベイシュヴェルやシャトー・デュクリュ・ボーカイユと並んで、サン・ジュリアンの中でも屈指の名声をもち、通向きのワイ
ンとして知られています。ワインのミステリーの傑作、イギリスの作家ロアルド・ダールの『Taste(味)』のテーマになったのがこのブラネール・デュクリュでした。この短編は何度読んでも面白い。ワイン通の間でこのシャトーがどのように評価をうけているかが分かろうというものです。ベイシュヴェルの街道に立って、右手のジロンド河の方を眺めると、斜め前方に何やらシャトーらしきものが見えます。格付けでは栄光の第2級の座を勝ち取ったシャトー・デュクリュ・ボーカイユです。
 あまりのんびりと寄り道もしていられないので、あとは車窓からシャトーを眺めるだけでサン・テステーフ村へ向けて只管車を走らせますが、紙数の許す限り少しだけシャトーの説明をしながら進めてまいります(但し、今回紹介するのはこの街道沿いで見られるシャトーに限り、内陸部のシャトーは省略します)。街道を隣り村のポイヤックへ向かって更に北上すると、サン・ジュリアン村の華ともいうべきシャトーが待ち受けています。 車のスピードを落として行かないと、あっという間に通リ過ぎてしまう間隔です。まず、街道の左手に堂々とした邸宅が立派な鉄製の門柱越しに見えるのがシャトー・ランゴア・バルトン(3級)。ちょっと手前の通りを挟んだ右手にシャトー・レオヴィル・バルトン(2級)がありますが、格付けこそ上にあるものの、このレオヴィルの方は醸造所だけで邸宅はありません。ラベルに刷られているシャトーは妙なことに現在のランゴアです。そして村落を通り越すと右手の葡萄畑を囲んだ石塀のところに、石造りの大きなアーチ状の門がぽつんとひとつ、辺りを睥睨するように立っています。ラベルにデザインされているシャトー・レオヴィル・ラス・カーズ(2級)の門です。そして左手にシャトー・レオヴィル・ポワフェレ(2級)があります。この格付け第2級の3つのレオヴィルはフランス革命によって生まれたナポレオン法典のために土地が分割されて、3種類の個性が全く違うワインが生まれました。特に、シャトー・レオヴィル・ラス・カーズは、これから訪問するシャトー・コス・デストゥルネルやシャトー・ピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ラランド等と共にスーパー・セカンドといわれ、大変高い評価を受けています。
 さて、いよいよポイヤック村です。ポイヤック!この小さな村は何というワインの宝庫なのでありましょう。世界の頂点に立つ偉大なワインがいくつもあり、美味しいワインとなれば枚挙にいとまがありません。5つの格付け第1級のうち、3つがこの村にあることからも、その偉大さが分かろうというものです。銘酒街道を北上し、レオヴィル・ラス・カーズの畑の終わったところ、あっという間に通り過ぎてしまいそうなジュイヤックと呼ばれる小川からポイヤック村がはじまります。この辺りの一画は文字通りの意味で黄金の三角地帯です。畝ひとつの差で、いや領地が入り混じって、それこそすばらしいワインの産地が三つ巴になっています。シャトー・ラトゥール、そして2つのピション、右側にシャトー・ピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ラランドと左側にシャトー・ピション・ロングヴィル・バロンがあり、共に第2級を誇っています。シャトー・ラトゥールはご存知の通り、1855年の格付けで堂々第1級にランクされた極上の赤ワイン。実は、ボルドーワインを暫く飲みこんでいくとこのラトゥールのすばらしさに出合い、それをきっかけに、私はボルドーに大きくのめり込んでいきました。恐らく生涯を通して、愛飲の1本になる銘柄で、今でも私のワイン番付では東の正横綱です。ラトゥールに始まってラトゥールに終わるにふさわしい逸品といえましょう。私の自慢は、1900年代初頭のシャトー・ラトゥールの古酒をまだ数本持っていることです。ラトゥールというと、色は深く濃く輝き、リッチでフルーティな香り。パワフルで、濃厚なタンニンの舌触りがありながら何とも言えぬまろやかさのある味に魅了されてしまいます。そこには全てにおいて円熟したものだけが持てる完璧なハーモニーがあるのです。そういえば、10数年前にシャトー・コンテス・ド・ラランドのオーナーであったランクサン伯爵夫人と東京でお会いした時、クラシック音楽好きの彼女は、「ワインは音楽のようなものです。ハーモニーを奏でることが大切なのです。だから、私のシャトーの葡萄たちにハーモニーを奏でてもらうのです。メルロがとても大切で、これによってワインに柔らかさがでます。言うなれば、第1ヴァイオリンですね。それからチェロのカベルネ・ソーヴィニョンもなくてはならぬもの。しっかりとした骨格はこの葡萄が生み出すのですから。そしてプティ・ヴェルド、これこそピション・ラランドの特徴だと思っています。ごく少量しか入っていませんが、ワインに新鮮さを与えるだけでなく、ワインが若いうちから飲めるようになるのです。ひとつひとつの完成度が高い音や葡萄が組み合わされて融合し、すばらしい作品となってこそ良い音楽でありワインなのではないでしょうか」という言葉が強く印象に残っております。つまり、優れたワインのひとつのキー・ワードは、“ハーモニー(調和)”なのです。彼女にお会いする数年前に訪れた時のシャトーの写真をお見せしましたところ直ぐ裏にサインをしていただき、快く私どもと一緒に写真撮影に応じてくださいました。因みに、東京・恵比寿ガーデンプレイスの“恵比寿のお城”と呼ばれている有名なフランス料理店のモデルになったと
いわれているのが、このシャトー・ピション・ラランドです。大きくはありませんが美しい城館です。このシャトーの斜め前には、兄弟シャトーのピション・ロングヴィル・バロンがあります。両者ともロワール河流域で見かけ
るような文字通りの華麗なシャトーです。この2つのワインを比べて面白いのは、バロン(男爵、左側)の方はその名の通り男性的でやや堅く熟成に時間を要しますが、コンテス(伯爵夫人、右側)の方は女性的で柔らかくまろやかさがあることです。
 この街道の左手奥には私が初めてボルドーワインに巡り合った思い出のシャトー・バタイエがありますが、残念ながら内陸部にあるため街道からは見えません(5級、vol.30をご参照ください)。更に、街道を走ると左手の方の小高い丘にシャトーが見えますが、ここは後ほど訪問するシャトー・ランシュ・バージュ(5級)です。 ここからポイヤックは街道の風景が変わってきます。前方やや右手に市街らしきものが見えてきます。これがポイヤックの街でジロンド河岸に出ますが、今回は時間の関係で立ち寄るのを諦めて街道を更に進むことにします。また家並みが始まりますが、そのひとつの辻が格付け第1級のシャトー・ムートン・ロートシルト(ここでは説明を省略しますが、vol.4344に詳しい内容を記してありますのでご参照ください)の入口となります。街道からはシャトーは見えません。そして家並みを抜けますと、また視界が広がり葡萄畑がつづきます。ポイヤックの銘酒街道の最後は、1855年の格付け第1級のトップを飾っている、あのシャトー・ラフィット・ロートシルトですが、このシャトーはコス・デストゥルネルの訪問後にちょっと立寄りましたので次回にとっておき、紙数の関係で先を急ぐことにします。
 さて、メドックを代表する4つの銘醸地区のうち、最後のサン・テステーフ村にやってきました。ポイヤックの銘酒街道を、左手にシャトー・ラフィットを見ながら車を走らせますと、道が少し下がりぎみになって、またすぐ上り坂になります。この低いところに、よくよく注意しないと気が付かないで通り過ぎてしまいそうな小川があります。これがポイヤックとサン・テステーフの村境です。かつてマウンテンバイクに乗って、今回と同じようにマルゴー村からここまでやって来て、憧れのシャトー・ラフィットをしげしげと眺めながら小川の傍で一息ついたことを懐かしく思い出します。あの頃は若かった!そして坂を登りきると次なる訪問地シャトー・コス・デストゥルネルの東洋風のパゴダのある異様な建物が目に飛び込んでまいります。やっとここまで辿り着くことができました。
 メドックを訪ねたことのない読者の皆様には、シャトー名を単に羅列しただけの、退屈な味もそっけもない文章になってしまったかと思います。ご容赦ください。この章を終わるにあたり、ボルドーの生んだ偉大な作家フランソワ・モーリヤックが少年時代を回想したエッセー、『田舎での幼年期』の次の言葉で閉じることにします。「ボルドーのワインのためにボルドーの人びとは信じられないほどの洗練を余儀なくされ、食事の献立を考えるたびごとに、予め決められたハーモニーの課すさまざまな法則を見出さなければならないのだ。そして、確かに、ボルドーの人たちのワインに関するこの知識、彼らがワインに捧げる愛情、彼らがワインに示すこの献身によって、深い感謝の念が彼らに捧げられなければならない」と。
 今回は紙数を大分オーバーしてしまいましたので、<シャトー・コス・デストゥルネル>の訪問記は次回にいたします。
 


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