本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

ボルドー展(3)

『ボルドー・ワイン』

明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 さて、昨年秋に開催された「ボルドー展」で、ゴヤに次いで興味を惹いたのは、あの『睡蓮』の連作をはじめ世に数々の素晴らしい絵画を残したフランス・印象派の巨匠であり、光の画家としても知られるクロード・モネ(1840-1926年)の描いた『ボルドー・ワイン』(1857年)でした。この巨匠が10代の頃にこのようなカリカチュール(Caricature,風刺画)を描いていたとは驚きでした。現在、65点余のカリカチュールが知られているといいます。『ボルドー・ワイン』はモネの両親の友人に贈られた初期のカリカチュールの一部だそうです。軽やかな線と明るい色彩が目を惹きます。「BORDEAUX」(ボルドー)と書かれたラベルを貼った樽の上に蔦の絡まる葡萄の房とワイン・ボトルが置かれ、ボトルの上には陽気に酔っぱらった男の顔が描かれています。その顔には無限の親しみを感じてしまいます。この陽気な顔を眺めていると、新年に相応しい“福の神”のように見えてきませんか。
 そして、昨年12月まで東京都美術館で開催されていた「モネ展」を覗いてみると、ここにも10代の頃に描いた『劇作家フランソワ・ニコライ』(1858年)等のカリカチュール(風刺画)が展示されていました。モネと聞いて思い浮かべる睡蓮や風景画とは大違いで、人々の顔を誇張して面白おかしく描いているのは、『ボルドー・ワイン』と同様でした。
 モネは1845年(5歳)から北フランスのノルマンディー地方の港町ル・アーヴルで家族と共に暮らしはじめます。モネは「子供の頃、授業はほとんど聞かずに、私はノートにカリカチュールを実に上手に描いていた」と、自ら語っています。そして、モネは少しずつ腕を磨き、15歳にして風刺画家としてル・アーヴルで知られる存在になりました。こうしたカリカチュールはやがて街で売られるようになり、それを目にした画家ウジェーヌ・ブーダン(1824-1898年、後にモネの師の一人となる)が、モネに会って風景画を描くように勧めたのです。「私はあなたの人物素描をいつも楽しく見ている。面白くて、軽やかで、見事だ。あなたに才能があることは、すぐに分かる。しかし、ここに留まらないことを期待する。第一歩としてはとても良いが、カリカチュールにはすぐにうんざりすると思う。勉強しなさい。見ること、そして色彩で描くことを学びなさい。デッサンをしなさい。そして風景画を描きなさい」と。それがきっかけで『睡蓮』、『印象、日の出』、『ルーアンの大聖堂』、『パラソルをさす女』等の誰でもご存知の数々の名作が生まれたのですから、人との巡り会いとは不思議で、実に面白いものです。でも、私は今回の「モネ展」では、睡蓮等の作品よりもむしろ「ボルドー展」で見た『ボルドー・ワイン』の延長線上にあって意外性もある、モネの描いたカリカチュール(風刺画)に惹かれてしまいました。

 実は、昔からオノレ・ドーミエ(1808-1879年)のカリカチュールに興味があり、リトグラフ(石版画)や画集を蒐集しておりました。「ボルドー展」に展示されていたドーミエの『秋の歳時記』というシリーズは、収穫期を迎えた葡萄畑と農民たちの姿が面白可笑しく描かれたリトグラフですが、偶然私が蒐集していたものもそのひとつであることが分かり驚きました。「ボルドー展」に展示されていたのですから、それなりに価値のあるものなのかもしれません。嬉しいことです。

 私が会社時代に勤務した製作所(兵庫県尼崎市)で、偶々近くにドーミエのコレクションでは日本一の収蔵を誇る「伊丹市立美術館」があったのは幸運でした。何度となく美術館を訪ね、ドーミエのリトグラフや油彩画そして彫像を前にして、多くのことを学ぶことができました。
 ところで、ドーミエの生きた時代、19世紀前半のフランスは正にジャーナリズムの勃興期にあり、新聞・雑誌などが多数発刊されました。当時のフランスは識字率がさほど高くなかったので、挿絵入り新聞の需要は大きかったのです。この頃創刊されたのが、風刺新聞として名高い「ラ・カリカチュール」や「ル・シャリヴァリ」でした。その「ル・シャリヴァリ」の創刊者がシャルル・フィリポンという人物で、彼が風刺画家としてのドーミエの才能を見抜き、育て上げていったのです。やがて、ドーミエは国王や政治家を風刺したリトグラフで一世を風靡しました。 19世紀のフランスは、真に激動の時代の連続でありました。特に、1830年のブルボン王家の復古王政を倒壊させた「7月革命」の直後から、この革命のスローガンの一つであった出版の自由が実現したのです。このような波瀾に富んだ社会の中で、芸術が見せた高揚は目覚ましいものがありました。否、このような緊張した社会であるがゆえに、と言い直すべきかもしれません。何故なら、自由を求めてやまぬドーミエのようなカリカチュール(風刺画)は、このような条件において一層多く描かれ、一層熟成し、深化していったからです。こうして、パリを中心にカリカチュール熱が一挙に高まり、風刺画家たちの飛躍の季節が幕を開けたのです。かのバルザック(1799-1850)はドーミエのカリカチュールを知って、「この男は皮膚の下にミケランジェロを宿している」と語ったといいます。このように芸術的に優れているドーミエのカリカチュールは、デッサンの力量と、黒白の濃淡を巧みに描く光と影の演出による色彩感覚の表現が見事に発揮されていました。 そして、そのことがその絵をカリカチュールとして躍動される力となって、一挙に絵画の美と滑稽の表現に昇華させていったのです。ただ、カリカチュールというものは同時代の人々にはすぐに笑えることも、現在の私たちには解読してみてはじめて、アッと驚くというスリリングなものとなるのでありまして、そこにこそカリカチュールを見るときの面白さが潜んでいるように思います。そんなわけで、現在の私たちがドーミエのカリカチュールを面白く見るためには、やはりドーミエが生きそして描いた19世紀のパリについての歴史を振り返り、学んでみる必要がありそうです。
 ドーミエは、生涯に4,000点近いリトグラフを残したほか、数十点の彫像、300点以上の油彩画を残しており、その油彩画の大胆な構図と筆使いは後の印象派の絵画を先取りしたものとして高く評価されております。その代表作の一つにドン・キホーテの油彩画があります(vol.133の最後の2点もドーミエ作です)。次に述べるロートレックをはじめ、ゴッホや多くの画家に影響を与えたのです。
 それでは、トゥルーズ・ロートレック(1864-1901年)の話に移りましょう。人間の記憶や知識とは当てにならないものです。私はてっきり、ロートレックは生まれ故郷であり、「ロートレック美術館」のあるアルビの地で亡くなったと思っておりました。ところが、「ボルドー展」で『くびきに繋がれた牛<マルロメの思い出>』(1883年)を見てはじめて、母親が別荘として所有していたボルドーの南東、サン・タンドレ・デュ・ボワ村にあるマルロメ城で、最晩年の1900年10月から1901年9月に亡くなるまでの日々を過ごしたことを知りました。この油彩画はマルロメでの思い出を描いたものですが、動物に対するロートレックの優しい眼差しと共に自由の効かない牛の姿がロートレック自身を投影しているかのようにも感じられました。パリ・モンマルトルを描き続けたこの画家の知られざる一面を垣間見た感じがしました。同時に大好きなロートレックがボルドーにも深く結びついていることを知りうれしくなってしまいました。マルロメ城から少し離れたヴェルドレーという小村にロートレックの墓があることも分かりました。享年36歳の若さでした。
 このマルロメ城は14世紀まで歴史をさかのぼることができる由緒あるシャトーですが、現在は「シャトー・マルロメ(Château Malromé)」として、カベルネ・ソヴィニョン種を主体としたワインをつくっており、ロートレックの肖像や彼の描いた絵入りのラベルの瓶を眺めながら、リーズナブルな価格で楽しむことができます。

 ところで、ロートレックには料理書があるのをご存知でしょうか。私は数年前にフランスを旅した時に、ヴェルサイユの古書店で『L'Art de la Cuisine(美食三昧―ロートレックの料理書)』という美本を信じられないような安価で手に入れることができました。中世都市アルビの貴族の家に生まれたロートレックは、芸術に優れていただけでなく、美食の伝統にも恵まれ、洗練された味覚の持主であったようです。ロートレックは単に味わうことだけに留まらず、自ら腕を揮って数々の料理をつくり出しました。 この本には丹念に工夫されたものから即興的なものまでロートレックの創作メニューを、死後に親友であったジョアイヤンが200点ほど選んで紹介したものです。食卓の楽しさを盛り上げることにいつも心を配っていたロートレックの意図に沿うようにと、そこには彼の水彩画、リトグラフ、クロッキーなどの見事な挿画400点余りが随所に載っています。ロートレックは、料理をつくることが絵を描くのと同様に芸術的創作に通ずるものと考えていたのでしょう。この本は眺めているだけでも楽しく、ロートレックの生きたベル・エポック(良き時代)の雰囲気を共有できるような気分になってまいります。
 新年を迎えてお客様の多いこの季節に参考になると思いますので、ロートレックがパリで仲間と一緒につくった美食倶楽部の8か条の掟をここでご紹介しておきましょう。1.テーブルクロスは白にすべし。2.招待客は8~10人に限るべし。3.その招待客は厳選すべし。4.食事には空腹で臨むべし。5.食事は大皿に盛って食卓まで運ぶべし。6.食卓の中央には皿温め器を。7.食欲を妨げるものは許すべからず。8.ワインは存分に振舞われるべし。時代を越えても当てはまる点が多いかと思いますが、如何でしょうか。
 そういえば、クロード・モネにも『À la Table de Monet(モネの食卓)』という料理本があることを思い出しました。芸術は料理と一脈を通じるところ多なのでありましょう。
 もうひとつ「ボルドー展」を見て驚いたことは、留学時代に何度も通った「ボルドー装飾芸術・デザイン美術館」にある18世紀の陶磁器が、テール・ド・ボルド磁器製作所(Manufacture de Terres de Bordes)等のれっきとしたボルドーの地元の工房で、上質な陶磁器が作られていたことです(制作されていた期間は短かったようですが)。私はてっきりリモージュで作られたものと思っておりました。おまけに精巧な銀器まで地元で制作されていたとは吃驚しました。華やかな黄金期を迎えた18世紀の「月の港」の繁栄ぶりとボルドーを支えたシャルトロン街の裕福なワイン商人や法服貴族の在りし日の洗練された暮らしぶりが伝わってまいります。

 最後に、この「ボルドー展」で私の蔵書のひとつである『Monseigneur le Vin―L'Art de boire(ワイン閣下―酒飲み術)』が展示されていたのは嬉しいことでした。アール・デコ最盛期の1927年に刊行された、ルイ・フォレストのエスプリに富んだ文章とシャルル・マルタンの描くポショワール(手彩色版画)の入った稀覯本です。ワインを注いだ後、心の準備をして、目、鼻、舌で順に味わっていく様子を描いた一連のマルタンのポショワールは実に見事で、洗練されたワイン文化と共に狂騒の時代ともいわれた1920年代の爛熟した空気を今に伝えています(vol.28及びvol.47をご参照ください)。随分昔にこの本に巡り合った時の興奮が蘇り懐かしくなりました。あの頃は私がワインに一番夢中になっていた時だったかもしれません。

 今回、「ボルドー展」を見終わって、ボルドーの文化・芸術の奥深さを改めて思い知らされた感がいたしました。そして、「もう一度ボルドーについて勉強し直しなさい、いつでも手を広げて待っているから」と、ラ・ガロンヌの精が誘(いざな)っているように思えてきたのであります。

“ガロンヌの/河の港に/近ければ/ねざめがちなり/夜半の汽笛に”(坂口謹一郎)

追記 私のボルドー留学時代の若き友(「ボルドー便り」に何度も登場している友人Ⅰさんこと、現在東京・神田で日本唯一のボルドー・ワイン輸入専門商社を経営する井田さん)が、昨年本場ボルドーにボルドーの郷土料理を主としたフランス料理の本格的レストラン&ワイン・バー「L'Exquis(レクスキ)」を出店し、人気を博しております。ソムリエもシェフも共に日本人です。
 実は、年末のNHK・BSプレミアムで、「堀北真希のフランス編―ボルドー・ワイン紀行―Emission sur les vins de Bordeaux avec Maki HORIKITA」が放映され、シャトーのオーナーの皆様との出会いをはじめ、葡萄の収穫体験、同世代の若きワイン生産者との語らい等を通し、堀北さんがボルドーの地で体験し、感じ取ったままを1時間30分に亘って映し出しておりました。ご覧になられた方も多かったのではと思います。
 そのエンディングのシーンで、サン・テミリオンのシャトーのオーナーの友人が、堀北さんをご案内した取って置きのレストランが、何と友人の店「L'Exquis(レクスキ)」であったのです。TVを見ていて妻と共に吃驚してしまいました。同時にとても嬉しい気持ちになりました。このお店で堀北真希さんの誕生日を祝い乾杯し、シャトーのオーナーの皆さんが夫々持ち寄った堀北さんの誕生年の1988年のワインをお贈りするという感動的なシーンでした。
 「L'Exquis」はボルドーに進出してから1年足らずで、地方紙「SUD OUEST」に写真入りで大きく取り上げられ、絶賛されたことは知っていましたが、NHKの番組の大切なエンディングの場所に選ばれたのはとても素晴らしいことだと思います。彼の今までの努力が実りつつあると妻と喜び合いました。このようにボルドー留学時代に出会った若き友が、ワインの本場で大活躍されているのを見るのは羨ましくも嬉しい限りです。
 今や世界遺産に登録されたボルドーは、フランス人が最も住みたい街といわれています。ボルドーご訪問の際は、有名な「グロス・クロッシュ(大鐘楼城門)」傍のレストラン&ワイン・バー「L'Exquis(レクスキ)」(3 Rue de Gienne Bordeaux)に是非お立ち寄りください。私がボルドーを訪れた時には「L'Exquis」は出店していなかったので、残念ながらまだ行ったことがありません。これで益々またボルドーへ行ってみたくなりました。私にとってボルドーは、汲めども尽きない魅力を湛えた第2の故郷であります。