本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

懐かしのバー物語(4)

アカデミー・バー(ACADEMY BAR)

 今回はニューヨーク、ブライズヘッド、そしてヴェニスから飛んで、神戸の「懐かしのバー」について語ってまいります。
 私は大学を卒業するまで東京でずっと過ごしてきましたが、会社に入ってからは名古屋での新入社員教育を経て、兵庫県尼崎市にある1万人近くもの従業員を擁する大きな地区の製作所に配属されました。そして学園前、甲東園、仁川に住んで、10年程関西で過ごしました。東京とは趣を異にする関西は奈良、京都、神戸にも近く、実に快適で思い出に残る地でありました。
 今回ご紹介する「懐かしのバー」は,神戸・三宮近くにある由緒ある《アカデミー・バー(ACADEMY BAR)》の物語です。私が彼是50年近く前に訪れた時は、戦後のバラックに手を加えて磨きをかけたような店構えで、加納町交差点近くの土地にポツンと佇んでおりました。ここは銀座の《バー・ボルドー》(vol.149)と同様に蔦が絡まり、窓ガラスは懐かしいすりガラスで、如何にも年代物という感じのする建物でした。店の入り口には、確か「翰林院酒肆」(アカデミー・バーの意)と気取った看板が掛かっていたように思います。ガタピシの引き戸を開けて中に入ると、もうそこはレトロそのものでした。それもその筈、開業は1922年(大正11年)で、神戸で最古のバーといわれておりました(当初は阪急上筒井駅(阪急神戸線の終点(当時))にあった関西学院前で、1936年ごろに三宮へ移転し、戦後まもなく現在の場所に移りました)。銀座の老舗バーと雰囲気は全く異にした、丸太を生かした山小屋ふうの作りでしたが、世界の銘酒がずらりと並んだその棚の光景は実に壮観でした。カウンターは分厚い桂材の一枚板で、時間と客によって醸し出された光沢が見事です。婚約時代の妻と一緒に行ったこともあったので、このバーを初めて訪れたのは1960年代後半、私がまだ20代の半ばのことでした。その時は、店主と私と同じ位の20代後半の息子さんと二人だけだったように思います。もしかしたら既に息子さんが二代目の店主を継いでいたのかもしれません。その二代目というと、いい男ですが愛想や追従が全然ない、どちらかというと取っつき難い人のような印象がありましたが、何度か通い続けているうちにほぼ同年代の誼もあってかすっかり打ち解け、酒の話をはじめいろいろなことを語り合えるような仲になったのは嬉しいことでした。
 このバーで何といっても目を惹くのは、白漆喰の壁に描かれた大きな絵(縦108センチ、横185センチ)です。今ではセピア色に変色し、時代の流れを感じさせます。
 

 当時、誰が言い出したことなのか定かではないらしいが、客として通っていた画家たちが、1948年頃から《アカデミー》の壁に落書きしようと思い立ち、数年掛けて夫々が痕跡を残したものというのが通説のようですが、実は、発案元は一代目店主であったらしく、戦後ばらばらになった仲間の無事を確認するため、訪れた芸術家たちが絵を残していけるようにと、店主自ら白漆喰の壁を設けたのが真相のようです。その画家たちの名前を聞いて、私は吃驚仰天してしまいました。小磯良平をはじめ、田村孝之介、小松益喜、小出卓二、津高和一、竹中郁(詩人)等々、神戸ゆかりの文化人16人の筆によるものだったからです。よくもまあ、これだけの芸術家が揃ったものだと感心してしまいました。この《アカデミー》が芸術家たちのサロン的なバーとして、戦後間もない時期に交流の場となっていたのでしょう。今では神戸の文化史を伝える貴重な遺産となっております。
 1995年(平成7年)1月17日に襲った阪神・淡路大震災で、果たして《アカデミー》は、そしてあの壁画は無事だったのだろうかと随分と心配しましたが、壁画には大きな亀裂が生じたものの、 その後も多くの客が壁画の前でグラスを傾けつづけてきたと聞いて安堵したものです。でも、店の周囲の再開発で建物の取り壊しが決まると、二代目店主は壁画を真っ先に神戸市へ寄贈を申し出たそうです。さすがです。そして、2015年12月に店を閉じて、翌16年2月には壁画も取り外したことを知りました。壁画は「神戸の古き良き芸術文化を伝える価値あるもの」として修復作業を終えて、大きなひび割れも直り、セピア色の漆喰も当初の白さを取り戻したとのこと。そして、2016年11月29日~2017年3月26日まで「神戸ゆかりの美術館」で初公開されていたことを後で知りました。あの懐かしい壁画と再会を果たせなかったのは誠に残念でしたが、今度機会があれば是非拝見したいものと思っております。
 それと《アカデミー》は、文豪谷崎潤一郎、佐藤春夫をはじめ陳舜臣や司馬遼太郎たちが通ったバーとしても有名です。この《アカデミー》ついては、芥川賞や谷崎潤一郎賞をはじめ数々の受賞歴のある辻原登(1945-)が『夏の帽子』(2012年「文芸」)の中で、見事な筆致でその姿を鮮やかに浮かび上がらせていますので、少し長い引用となりますがご紹介しておきます。前文と重なるところがありますがその点はご容赦ください。
 「もう16、7年前になるだろうか・・・。三宮から県道30号、通称税関通りを新神戸駅のほうへ向かって歩いて中山手通りと交差する加納町3丁目の北東角に《アカデミー》というバーがあった。住所は布引2丁目。私は、かつてそこに3,4回行ったことがある。忘れていたのだが、いまもまだやっているのだろうか。行ってみようと思い立った。(中略)
 あれほどの災害に見舞われたまちだ。《アカデミー》が昔通りにあるはずがない。私は引き返してもよかった。だが、坂道をいったん歩きはじめたら、途中で引き返すことなどできるものではない。正直いって、私は《アカデミー》がなくなっていることを願っていた。(中略)だが、それはあった。同じ場所に、昔と全く変わらないしもたやふうのたたずまいで。車がひっきりなしに行き交う中山手通りから、いきなりマカダム舗装の細道がツゲやツデイの植込みの中へ10数メートルのびて、壁に蔦を絡ませた二階家に通じている。私は道の半ばでいったん立ち止まり、まるでだれか尾(つ)けてきた者はいないかと疑うかのようにうしろをふり返ったあと、徐(おもむろ)に引き扉を開けた。
 「いらっしゃい」。高くしわがれたあのマスターの声。私は会釈を返して、店内を見回す。少しも変わっていない山小屋ふうのつくり。左側の壁に、畳一枚くらいの漆喰のボードが嵌め込まれている。仄明るい白熱球のもとに、セピア色のボードから美しい少年の横顔やカトレアの花、鳥籠とその中のカナリア、切り取られた鎧窓、コウモリ傘、獅子舞の頭(かしら)、瓶首を握った手、パイプ、水パイプ、三人の子供の裸像、神戸の街並みなどの油絵が浮かび上る。それぞれの絵のわきにはサインがある。R.KOISO,K.TAMURA,S.OKA・・・。小磯良平、田村孝之介、岡鹿之助、伊藤慶之助、坂本益夫、詩人竹中郁の名前もある。戦後日本を代表する神戸画壇の雄たちが、ここで酒を飲み、画論をたたかわせ、戯れに描いた絵。

 私はマスターに促されて、右手奥のカウンターに向かう前、もう一度ボードに顔を近づけて、ある画家の名を捜す。だがみつからなかった。「だれを捜しとるんや」、「小出楢重・・・」、「小出は、はなからここにおらんよ」、「そうですか。あったように思っていたのですが」、「あんた、以前、来たことある?」、 「ええ、ずいぶんと昔に、一度・・・」。私が小出楢重の絵がボードにあると思っていたのは勘違いだった。それはたぶん谷崎潤一郎が絡んでいる・・・。小出楢重の代わりに、私はボードに何本ものひび割れをみつけ、そっと人差指の先でなぞった。「地震のきずあとや。何にしますか」。どうやら幸いなことに、マスターは私のことを覚えていないらしい。私はフォア・ローゼズの黒ラベルのソーダ割を頼んで飲みはじめた。客は私の他に二人しかいない。そっとマスターを観察する。彼の胡麻塩頭も、顎ヒゲも大きな耳も当時と変わっていないようにみえるが、滑舌や立居振舞のひとつひとつにはさすが年を感じさせるものがあった。
 (中略)私がすわっているカウンターの右隅に、ボブ・ディランのCDが立てかけてある。以前、このあたりに谷崎から先代のマスターに宛てた葉書きが4、5枚、無造作に置かれていたのだが・・・。小出楢重と同様、やはり私の記憶違いだろうか。たしか谷崎潤一郎の葉書がこのあたりに、とためらいがちにマスターにたずねると、窓際に立てかけられたLPレコードの並びの端を指さした。私は立ち上がって、一冊の小型のファイルブックを取り、めくった。谷崎の葉書はたしかにあった。毛筆で認(したた)められた先代のマスター宛の、いずれも東京や熱海、京都から出された礼状や時候伺いだ。「昔はもっとあったんやけどな。こないだの震災でどっかへいてしもうた」。神戸時代、谷崎はよくここに来たのだ。私が、ここで、カウンターの上に無造作に置かれていた谷崎の葉書に出会ったのはひと昔も前のこと。しかし、谷崎が通った頃の《アカデミー》は現在の布引2丁目ではなく、少し離れた上筒井通6丁目のあたりにあって、戦後ここに引越してきた」と結んでいます。
 この後に小説は、《アカデミー》へ初めて連れて行ってくれた女性の追憶へと展開していきます。作者の持ち前の叙情と技巧とが絶妙のせめぎ合いをみせつつ、結末のほろ苦くも切ない味わいは、何かデジャ・ヴュにも似た想いが過(よぎ)ります。それは『夏の帽子』を読んでのお楽しみとさせていただきます。
 ここで作家の凄いのは、谷崎の葉書を読んだ次の日曜日に大阪市立淀川図書館に足を運んで、中央公論社から出ている谷崎潤一郎全集全30巻に当たって、《アカデミー》のことが何処かに出ているかもしれないと調べていることです。そして、ついに第23巻の388頁に《アカデミー》の名を見つけ出したのです。それは昭和39年5月6日、佐藤春夫が亡くなり、同月、谷崎が「朝日新聞」に寄せた「佐藤春夫のことなど」と題する一文でした。そこに書かれていたのは、《アカデミー》を舞台に谷崎潤一郎と佐藤春夫の微妙な関係を浮き彫りにした、ある意味では、有名な「細君譲渡事件」と呼ばれる醜聞よりも更に衝撃的な内容でした。ご参考までに別紙に記します(ここをクリックしてください)。
 いずれにしても、神戸の「懐かしのバー」である《アカデミー》が、銀座の老舗バーと同様に又も姿を消してしまったのは残念としかいいようがありません。これも時代(とき)の流れなのでしょうか。嗚呼!
 
 付記 vol.152でご紹介した『主体の論理・概念の倫理―二〇世紀フランスのエピステモロジーとスピノザ主義』の共著者の一人である、ボルドー時代の若き友、坂本尚志(さかもと・たかし)京都薬科大学准教授が、今年度最初の一冊、『反「大学改革」論』(ナカニシヤ出版)という大変興味ある本を出され贈呈してくれました。彼は第十章「専門教育は汎用的でありえるか ― ジェネリック・スキルとバカロレア哲学試験」を執筆しております。
 若き研究者たちが、「これから大学はどうなっていくのだろうか」の命題に対して、批判だけに終わらずに真剣且つ前向きに建設的な提案をしていることにおおいに感銘を受けました。大学はいま、その理念や存在意義そのものが根本的な問い直しを迫られている状況がよく分ります。大学関係者、現役の大学生そしてこれから大学を目指す学生はもとより、私たちにとっても大変考えさせられるテーマを扱った好著です。是非ご一読をお奨めします。