本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - ワインにうるさい古代ローマ人(1)-


ペトロ二ウス著『サテュリコン』
 前回は開高健の名作『ロマネ・コンティ・1935年』をご紹介しましたが、古酒で思い浮かぶのは、ペトロニウス(AD27年頃―66年。皇帝ネロ時代の粋判官、文筆家)著『サテュリコン』の「トリマルキオの饗宴」の一節です。解放奴隷で財を成したトリマルキオが招待客たちをワインでもてなす大変興味深い場面があります。今回は遥か古代ローマに夢を馳せながら、当時のワインについて語ってまいりましょう。
 ― すぐに2つの把手のついたガラス製の壺に入ったワインが運ばれてきた。丁寧に石膏で封印され、首のところにこのような銘札がつけてあった。《オピミウスの年に収穫せしファレルヌス酒、100歳》。参会者たちがこの銘を確かめている時、トリマルキオは手を叩いて、次のように叫んだ。「やれやれ、こうしてみるとワインは可哀相な人間よりもずっと長生きするな。とにかくわしらも大いに酒を飲むことにしよう。酒こそ人生だ。正真正銘のオピミウスですぞ」と(前回のロマネ・コンティ1935年を飲む時の重役氏と小説家の会話と何処か似ているように思いませんか)。トリマルキオが供したワインは、何と100年物という設定になっていますが、ルキウス・オピミウスが執政官であった紀元前121年は、どうやらワインの大当り年であったようです。しかもファレルヌス酒は、アゲル・ファレルヌス(カンパニア地方の現在のモンドラゴーネ近辺)でつくられる、最高級ワインの呼び声高い銘酒でありました。この100年物は、ワイン好きの参会者たちをひと時の桃源郷に誘い込んだことでありましょう。
 通常のファレルヌス酒であれば、ポンペイに遺されていた碑文で確認することができます。「ここでは1アスで飲める。もし1デュポンディウス(2アス)払えばもっといいワインが飲める。もし4アス払えば、ファレルヌス酒が飲める」と。この碑文によれば、ファレルヌス酒は普通のワインの4倍の値段ということになりますので、100年物とあればさらに何倍もの桁外れの価格であったことは間違いないでしょう。これは珍しいワイン、特に味覚のためと健康のためなら(この2つの基準は古代ローマにおいては分かちがたく結びついています)高額の金額をすすんで払う愛飲家が既に存在していたことを示しております。トリマルキオが100年物のファレルヌス酒を供したことは、私たちが100年物のシャトー・ディケム(vol.57)やヴァン・ジョーヌ(ジュラ産の黄色いワイン。Vol.87))やトカイ・アスーの古酒を運よく味わえるのと同じことだったのかもしれません。いずれにしても、ファレルヌス酒は、ローマが生み出した中で、唯一、何世紀にも亘って語り継がれた偉大なワインでありました。どんな色で、どんな香りと味がしたのでしょうか。大変興味の湧くところです。このファレルヌス酒は遠くブリタニアまでも輸出されていたことが、ポンペイで発見されたアンフォラ(テラコッタ製陶器の一種で、2つの把手と、胴体からすぼまって長く伸びる首を有する。古代ギリシャ・ローマにおいてはワインをはじめオリーブ等の運搬・保存用として用いられた)の碑文からも明らかになっています。アンフォラは気密性がよく、大きな瓶と同じようにワインを熟成させ、良好な状態で長期保存ができました。このように高級ワインの殆どは、何世紀もの間非常に美しいアンフォラに詰められていたのです。そして、このようなアンフォラは、いずれもワインと同じ産地で製造され、原産地と収穫年が書かれたラベルが貼られていたといいます。それは背が高くてエレガントな、首と取っ手が細長い、ドレッセルⅡ型というものでした。つまり、容器もワインの味も最高級だったというわけです。また、ファレルヌス酒の中でも、最高の葡萄園はファウストゥス(独裁官スッラの息子ファウストゥス・コルネリウス・スッラ)のものだと、大プリニウス(AD22年頃―79年)は『博物誌』の中で述べていますし、ここで生産されたワインのアンフォラはポンペイで発見されています。「ティベリウス・クラウディウスが4度目の、ルキウス・ウィテッリウスが3度目の執政官の年(AD47年)のファウストゥス農園のワイン」と。では、このような銘醸ワインをどのように味わったらいいのでしょうか。ラテン文学黄金時代の詩人ホラティウス(BC65年―BC8年)は、「最高のワインを9年間熟成させたうえで、愛人と一緒に味わうべきだ」と宣っております。
 紀元前1世紀までには、裕福で上流社会のローマ人は、海の見渡せる庭付き別荘を建てる場所としてカンパニア海岸やナポリ湾やソレント半島を好むようになっていました。この南の地ではギリシャ文化がまだ非常に強く息づいており、ギリシャ産の葡萄からできるワインが、イタリアで最高と考えられていました。だが、アミネウムという葡萄品種でつくられるこのファレルヌスのワインが、やがてイタリア・ワインの最初の黄金時代を築いていったのです。ファレルヌス酒の他に、ラティウム地方のセティア産のワインも有名で、アウグストゥス(BC63年-AD14年)を含む歴代皇帝はたいていセティア酒を何より好んだと『博物誌』が伝えています。ポンペイのある居酒屋の壁画には、ワインの瓶を持って回る店員に対して、客がカップを差し出す場面が描かれており、そのそばに「セティア酒をもう一杯!」とのグラフィティ(落書き)が確認されています。もっとも、この店のメニューにセティア酒があったとは限らず、むしろ、まずいワインを出す店への当て付けだったのかもしれません。そして、あまりにも薄くて、まずいワインが出されると客も黙ってはいません。「そういうごまかしの報いを受けるがいい、店主よ。お前は水を売って、純粋なワインは自分が飲んでるんだからな」と。
 特定の葡萄園からできた「銘醸ワイン」、あるいは「特級畑」という概念が導入されると、高級ワインと、量だけが問題になる大量生産ワインとの間にはっきりとした境界線が引かれるようになってきます。ただ調べていくうちに、その「銘醸ワイン」と格付けされたものは、そのすべてが白ワインだったということが分かりました。私は、「銘醸ワイン」というからには、てっきり赤ワインだとばかり思っていましたので、全く予想外のことでした。しかも、全てが甘口のワインであったということです。古代ローマの人々の好みは、強くて甘いワインにあり、それもしばしば、今日のマディラ酒と同じような方法で調合されていたようです。そしてたいていは、温かい水で薄めて飲まれ、塩水で薄めることさえあったといいますから驚きです。冷水だろうが温水だろうが、はたまた塩水だろうが、マディラ酒を水などで薄めるとは・・・・・。だが、ソルボンヌ大学長であったジャン・ロベール・ピットは、ワインを水と混ぜるのは余り趣味がよくないように思えるかもしれないが、そんな心配は全くない。慣れた人なら、水を混ぜたワインの質を極めてよく区別することができるからと。そして、フランスでこの習慣が消えたのは、ごく最近のことだということを忘れてはならないと指摘しております。実際、ボルドーのサン・テミリオン地区の有名なシャトー・フィジャック(vol.63)の所有者ティエリー・マノンクールは、長生きをして亡くなった実母が、フィジャックを水で割って飲んでいたと回想しています。何かとても勿体ない気がして、ちょっと違和感を覚えてしまいます。いずれにしても、ローマ人がワインの味を鋭く区別していたこと、そして最高のワインをつくるために洗練された技術を駆使していたことは確かだったようです。
 大プリニウスは16の名産地を4つの範疇に分類しています。そこには、辛口、甘口、貴腐ワインの超甘口などが示されてあります。でも、古代ローマにおいては、食物とワインの調和(マリアージュ)は殆ど不可能に近かったのです。それは会食時の配膳では、様々な料理がいっぺんに供されるからです。当時の食堂には、私たちが食事の際に取り囲む大きなテーブルはありませんでした。その代わり、馬蹄形に並ぶ横臥式寝台の真ん中に、いつも小卓が置かれていただけで、それがご馳走のいっぱい入った大皿にのせる台の役割を果たしていました。客は、気持ちのよい亜麻のシーツが敷かれたマットの上に横たわり、赤紫色のクッションにもたれて、中央の食べ物を右指でつまんで食べていたのです。女性の招待客は皇帝の妻や特権階級に限られ、一般女性は招かれなかったようです。そして、宴席の前には必ず一風呂浴びて、体を清めるのが当時の習慣でした。
 ローマの美食家たちは、宴会に好んで集まりましたが、その席上で彼らは哲学や詩を論じるだけでなく、食べたり飲んだりするものについても大いに論じ合ったと、『英雄伝』の著者プルタルコス(AD46年頃―127年)は述べています。「友情を獲得するためには、ワインがものをいう。会話ではワインがまじると、話のとっかかりが生まれる。というのもワインなしの会話は、ワインがあれば友情や教養や魂までも容易に動かせる成分を、体から遠ざけてしまうからである」と。つまり、偉業に輝く古代ローマの歴史において、歴史をつくる男たちにとって、ワインが供される饗宴は不可欠であったということです。
 ティベリウス・クラウディウス・セクンドゥスの墓は紀元前1世紀に遡り、次の碑文が刻まれています。「風呂、ワイン、愛がわれわれの健康をむしばむ。だが、風呂、ワイン、愛こそが人生そのものだ!」― 大切なものを乱用し、始終酔っぱらい、ホラティウスのいう“今日という日を摘み取れ(carpe diem(羅),カルペ・ディエム)”という金言を善用できなかった享楽派の墓です。もう一つの墓はドミティウス・プリムスの墓に刻まれた碑文です。「この墓に眠る私は、名高きプリムスである。私はルクリノ湖の牡蠣を食べて育ち、たびたびファレルヌス産のワインを飲んだ。風呂、ワイン、愛も、私と共に年老いていった」― こちらは当時最高の飲食物を口にしながらもつつましく暮らし、健やかに天寿をまっとうした賢明なエピキュリアンでした。一方は豪放磊落な人物、他方は聡明なワイン愛好家の墓碑です。皆様はどちらの墓碑(人生)に魅かれますか。
 ローマ人のワインづくりに多大な影響を及ぼしたギリシャ人はワインを美味しくするために、熟成させる術を既に知っていました。アレクサンドロスの時代に生きて、ワインのもつ人間味を謳ったアレクシス(BC4世紀のギリシャの喜劇作家)の詩です。「人間はその性質上、ある意味でワインと似たようなものだ。確かに若いワインは当然人間と同様、まず熱しやすく高慢であることをやめなければならないし、それから華やかな時代が過ぎれば辛口にならなければならない。次いで体力が衰え、自分が語るすべてのことから純化され、外観を覆っている狂気を失えば、飲みやすくなって穏やかさを回復し、すべての人に快くありつづけなければならない」と。アンティファネス(BC388年頃―BC311年頃、ギリシャの喜劇作家)は、もっとはっきりしていて、「われわれの一生はワインにそっくりだ。残りわずかな頃になると、どちらも変質してしまう」といいきっています。
 読者の皆様には、拙稿によって古代ローマのワインと饗宴の情景を少しでも想い描けることができましたなら幸甚に存じます。


 


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