本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
ドン・キホーテと寅さん(2)
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先ずはドン・キホーテと寅さんの出で立ちから見てまいりましょう。槍を掲げてラ・マンチャの高原を行く痩せこけた騎士。世の不正を正し、弱き者を助けるために冒険を探し求めて苦難の旅を続ける騎士。 ![]() 騎士道を現実の世において実践するという夢にかられ、冒険を求めて諸国を遍歴するドン・キホーテ。行先は決まっておらず、「進路は馬まかせであった。自分の馬の望む道をたどること、そこにこそ冒険行の真骨頂があると信じていたから」と前編で述べています。 一方、粋でいなせな渡世人の寅さんといえば、ベージュ地に茶色の格子のダブルのスーツ、ベージュの中折れ帽子、ダボシャツとらくだ色の腹巻、首からぶら下げたお守り袋、足元は素足に雪駄。それに古ぼけた茶色い革のトランクを愛用と、それなりにきまっているものの、いささか時代離れした異様な出で立ちであることは間違いありません。寅さんのこうした外見は、渥美清という俳優によってスクリーンに具現されているので、ドン・キホーテと違って寅さんを私たちはリアルに思い浮かべることができます。寅さんは人生のノスタルジーを夢見る放浪者であることは、ドン・キホーテと同じであります。 さて、この二人の人物が如何に美しい女性に憧憬と崇拝をもって旅をつづけていたかを語ってまいりましょう。 ![]() ![]() 化粧の力を借りて一層美しくなりたいという願望が自然なものであるのは事実として、15世紀の頃から化粧する女性が痛烈な批判や皮肉の対象になっていたのも事実のようです。これは旧約聖書『創世記』の「神は御自分にかたどって人を創造された」との有名な一節を想起しなければならないでしょう。被造物の人間は造物主の神に似せられて、つまりあまたの恵みを賜って、この世に生を受けました。だとしたら、程度の差こそあれ、化粧の魔力で生来の顔を変えようとすることは、その恵みを否定しないまでも、恵みに対して不満の意思表示をすることになりはしないかということです。15,16世紀の知性の重鎮たちが、キリスト教思想に立脚して化粧を排撃したのは確かなことでしょう。これ以上書くと世の女性方を敵に回しかねないので、当時の美顔術についての話はこの辺で止めることにします。でも、電車の中で人目もはばからず一心不乱に化粧する今の若い日本女性の姿を見たらどう思うでしょうか。当時の人もさぞかし驚き嘆き、そして嫌悪感をもって酷評したのは間違いないでしょう。 ![]() さて、美顔術に寄り道してかなりページを割いてしまいました。本来の寅さんの話に戻りましょう。周知のように映画『男はつらいよ』には毎回、寅さんが憧れるマドンナが登場し、彼女を巡って、たいていは寅さんのひとりよがりな思い込みに基づく悲喜劇が展開されます。勿論、寅さんの人間味ゆえに、寅さんに対するマドンナの好意が熟す場合もありますが、恋が成就することはありません。寅さん自ら、「俺から恋を取ってしまったら何が残るんだ」と述懐するほどですから、車寅次郎の人生において恋愛がいかに重きをなしているかは、ほとんど自明のことであります。いわゆる大人の恋愛に踏み込めない寅さんにとって、至福の時は好意をもたれているという快感であり、大事なのはそこまでで良いという満足感です。その先は要らないのです。寅さんもドン・キホーテと同様にプラトニック・ラヴの権化だったのであります。でも、「寅さんは、顔は三枚目だけど心は二枚目よ」とマドンナから言われてきました。 ![]() 寅さんはいつも夢を見ながら、しがないテキヤとして貧しい旅をしている渡世人ですが、寅さんの特技というと、幸福な生活というものを生き生きと思い浮かべる“想像力”にあると思います。その幸福な具体的な形として、毎回、とても手の届くはずのない美女との恋愛が生じます。結果としてそれは馬鹿げているかもしれませんが、私たちが寅さんに単なる滑稽な男というか可笑しさ以上に、いつの間にか幸福を夢見ることに共感してしまい、密かな一種の敬意まで感じてしまうのです。 寅さんの恋愛至上主義的な面を彷彿とさせる場面があります。「いいかい、いい女だな、と思う。その次には、話がしたいなあと思う。その次には、もっと長くそばに居たいなあっと思う。 ![]() ところで、寅さんの価値観は何かと考えてみるに、全作品を通して、いわばその“格好良さ”にあると思います。格好良さと言っても、ダンディズム的なものとは違います。腹巻をして、雪駄を履いて街を歩く寅さんにとっての“格好良さ”は、任侠的な格好良さです。特に、惚れた女性の前では、寅さんは特にそうした格好良さを演じようとするのです。しかし、ほとんどの場面に、そうした格好良さの追求は失敗に終わり、それが私たち観客の笑いとある種の哀しさと同情を誘います。兎に角、『男はつらいよ』シリーズのほとんどの作品は、寅さんの旅先での女性との出会いと、柴又への帰還、そして旅先で出会ったマドンナが柴又へ来て、とらやの人々と交流し、寅さんの失恋というパターンで出来上っています。寅さんを柴又へと引き寄せるものは何かというと、それは“望郷”の思いではなかったのでしょうか。 寅さんは望むと望まないとにかかわらず、最後の作品まで、世俗的な幸せの基盤としての家族を持てなかった。というよりも原作者である山田洋次監督が寅さんを結婚させなかった、させたくなかったのでありましょう。 以上の如く、寅さんに相通じるドン・キホーテの諸々の特徴も、とりわけ“場当たり性”は近代の合理主義とは相容れないものがあります。寅さんもラ・マンチャの騎士、ドン・キホーテも、個別的なもの、ローカルなもの、その場限りのもの、人間的なるものを尊重する正に化身だったからなのです。ロシナンテに跨って諸国遍歴の旅に乗り出し、当時の新たな価値観を体現したドン・キホーテも、トランク片手に日本全国を旅する渡世人、寅さんの醸し出す人情味あるいはポエジーは、現在にあっても、なお新しき人として輝きつづけております。それは、おそらく人間に、正義にたいする志向、あるいは“愛”がある限り、いつまでも燦然と輝きつづけていくことでありましょう。 時間と空間と環境を大きく異にするドン・キホーテと寅さんの風体は別として、両者の気質がかなり類似していることは読者の皆様にもお認めいただけたことと思います。寅さんにオマージュを捧げつつ、『男はつらいよ』のYou Tubeを見ながらお別れといたします。https://www.youtube.com/watch?v=367_gG9f3zU ![]() 追而 今年も、ボルドー・ワイン界の重鎮、シャトー・ド・ファルグの城主リュル・サリュース伯爵(シャトー・ディケムの前オーナー)、 ![]() (vol.103,vol.104,vol.105,vol.106) ![]() |
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