本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

奈良の思い出(4)―「大和古道(Ⅰ)」

山の辺の道

 奈良(大和)の四季はそれぞれにいいものです。住みつづけると奈良を恋うる気持ちは年々歳々強くなっていきました。実は、私が小学校6年生の時に父と一緒に奈良を旅した際に、近鉄「学園前駅」を通り過ぎようとした瞬間、父がいつかこの辺りに家を建てるからと小高い丘を指さして話したことを思い出します。その時は東京を離れるのはイヤだと言い張ったことを憶えていますが、父が奈良を終(つい)の棲家と定めて、そこに私が一時期(大学生時代を含めて8年間ほど)であれ住めたことに感謝しなければならないと、いつしか思うようになりました。
 さて、奈良の魅力は、言うまでもなく飛鳥時代から奈良時代へかけての古い歴史の舞台であり、その歴史のかけらが至る所に散らばっているところにあります。それは寺院や塔や、寺院の中に蔵している夥しい数の彫像類ばかりではありません。どの山も、どの丘も、どの川も、それぞれに歴史の山であり、丘であり、川であるからです。こうした奈良の四季が特殊なものでなかろう筈はありません。歴史の翳(かげ)りのようなものが、四季それぞれの光の中にも感じられました。奈良の春は春で明るく、秋は秋で明るいのですが、これは奈良の地独特の明るさであるように思えたのです。ただ明るいのではなく、どこか底の方にひんやりした翳りが隠されている明るさでありました。いうまでもなく、その翳りこそは歴史の翳りでありましょう。これは奈良に住んで、あちこちを訪ね歩いてみて感じたことです。歴史というものは、特に古代史というものは、それがどんなに華やかなものであろうと、振り返ってみれば、どこかに暗いものをもっているからなのでしょうか。栄枯盛衰の暗さもあれば、無数の小さい悲劇の埋まっている暗さもあります。そうした古代史が投げかける翳りが、奈良の春の明るさをも、秋の明るさをも独特のものにしているように思えてなりませんでした。

 そして、旅行のような非日常なことではなく、その土地に住みついて初めて味わえる古都奈良のしみじみとした良さというものを感じるようになりました。それは前回、前々回に書いた「お水取り」(vol.159)や「結解料理」(vol.158)のような有名な行事ではなく、ごく平凡な日常生活の中で出合う瞬間でした。例えば、雨上がりの朝の奈良公園の飛火野(とびひの、とぶひの)に立つと、うっすらと靄(もや)がかかり、眩しい朝日にしっかりと照らされる芝生の輝き、辺りの小高い山々が紫色に煙った瞬間の風景はとにかく美しいものでした。雨の降った翌日が休日であれば、勇んで早朝から妻と飛火野に出掛けては、その風景を楽しんだものです。因みに、飛火野は浅茅が原等と合わせて春日野といわれています。 春日大社の西に位置し、その雄大な芝生の広がりは市街地の傍とはとても思えないほどの圧倒的な自然を擁しています。春日野は奈良時代に神々を祀った聖地であり、天皇が鷹狩りをされたところであり、大宮人の野遊びをする場所でもありました。ここからは奈良時代の祭礼用の土器の破片などが多数出土しております。また起伏が多く、かつて野守(のもり)が烽火(のろし)を上げた場所であったことから、飛火野という名が付けられたとも伝えられています。「春日野の 飛ぶ火の野守 出でてみよ 今いくかありて 若菜摘みてむ」(古今和歌集、詠み人知らず)。そして飛火野といえば、のんびりと草を食む鹿の群れを眺めることができるスポットでもあります。紅葉が春日の山野をうずめると、澄みきった秋空に悲しげな牡鹿の鳴き声が高く響き渡ります。
 次は、春日大社の二ノ鳥居から志賀直哉旧居(vol.160)のある高畑町方面に抜ける、「ささやきの小径(Whispering promenade)」とロマンチックな名が付けられている散歩道です。両側は馬酔木(あせび、あしび)の木々に囲まれ、野鳥の声だけが聞こえる、静寂で昼なお暗い小径です。木漏れ日までもが緑に染まっているように感じてしまいます。時には鹿がふいに現れたりします。馬酔木は三月から五月にかけて、スズランに似た白い清楚で可憐な花が房状になって咲きます。ここは春日大社の神官が行き来し、志賀直哉をはじめ文化人等が散歩を楽しんだ小径でもあったようです。馬酔木には毒(アセチボン)があり、鹿が食べないために広大な馬酔木の森が広がったのでしょう。「我が背子に 我が恋ふらくは 奥山の あしびの花の 今盛りなり」(万葉集、詠み人知らず)。近くには薬師如来・十二神将の新薬師寺があります。
 そして大仏殿の裏手にある大仏池周辺は大銀杏をはじめナンキンハゼ、カエデなどの紅葉が実に見事で、晩秋になると妻と池の端の芝生に座って、ゆっくりとその眺めを楽しんだものです。辺りは黄金色に輝く銀杏の絨毯が広がっています。この池の西岸から見ると大仏殿、その背景には春日山、若草山、御蓋山(みかさやま)が並び、大いに目を楽しませてくれました。鷺などの水鳥も多く見かけ、大銀杏の下では鹿が遊んでいます。ここは観光客も少なく、紅葉の穴場スポットです。帰りは東大寺旧境内の礎石を眺めながら古代を偲びつつ、大湯屋(東大寺僧侶が大事な法要の前に身を清めた浴場)を通って二月堂に出るのがいつもの散歩コースでした。この大湯屋傍の大銀杏も見事で、それにつづく土塀に囲まれた二月堂の裏参道は一幅の絵のような景色で、散歩するには絶好の場所でした。それから奈良唯一の池泉回遊式庭園の「依水園」で、そのすばらしい庭を眺めながらお茶を一服味わうのも楽しい一時でした。時には、鑑真和上創建の「戒壇院」に立ち寄ったりもして。このように日常いつでも好きな時に好きな場所を気楽に訪れることができたのは、何といっても奈良に住んでいたから味わえるものでした。幸せを感じた瞬間でもあります。でも、いつもそこにはそこはかとなく漂うひんやりとした歴史の翳りのようなものを覚えるのです。

 さて、本題の「大和古道」をご案内いたしましょう。古い歴史と共に、大和の風光を特殊なものにしているのは万葉の歌であるような気がいたします。何故なら『万葉集』二十巻のうちの大和を詠っている歌は大変な数に上っているからです。恐らく大和のどの地点に立っても、万葉歌と無関係なところはないでしょう。大和平野とは万葉の歌によって織りなされている大きな絨毯のようなものかもしれません。そしてその万葉の歌によって織られ、古い歴史によって色揚げされ、遺跡や遺構や古美術を美しい絵模様として散りばめた大和平野には、古来何本かの道が走っておりました。伊勢へ行く道、摂津へ行く道、柳生へ行く道、紀伊へ行く道、近江へ行く道、山城へ行く道、それのどれもが歴史の道でありました。 遷都の度に文武百官の隊列が通って行った道であり、大陸からの使節が往復した道であり、遣隋使、遣唐使たちが万感の思いを抱きしめて、一歩一歩足を運んで行った道であります。壬申の乱の兵鼓が鳴り響いた道でもあり、何人かの貴族たちが追われて落ちのびていった道でもあります。そしてまた万葉の歌人たちが、その時々の想いを歌に託するために停まった道でもあったのでしょう。ある道はなくなり、ある道は今でも遺っています。道とは時代が生んだ生きもののようでもあります。
 ここでは、数ある「大和古道」の中から実際に歩いたことがある、「山の辺の道」と「柳生への道」を取り上げてご案内したいと思います。先ずは、日本最古の道といわれる「山の辺の道」から。五月のある日、ふっと思い立って早朝から妻と「山の辺の道」へ出掛けました。「山の辺の道」とは、三輪山の西南麓から春日断層崖の西縁を縫って北上し、奈良山丘陵に至る古道であります。道沿いには、古社寺、名所・旧跡、古代遺跡などが点在しています。周りは景観にすぐれ、私どもが訪ねた五月の新緑の頃は実に爽やかでした。梅・桃・椿・桜の花が咲く春先も美しく、柿の葉が落ち尽くす初冬の頃もしみじみとした味わいがあります。三輪山を仰ぎ見、また西方に広がる奈良盆地を、更には遠く大和三山や二上山・葛城山・金剛山の山容を望みながら、起伏に富んだ「山の辺の道」を歩くと、遥かなる古代が偲ばれて身も心もひきしまる思いでした。今回はJR三輪駅から近鉄天理駅まで、山裾に広がる里山風景の中を好天に恵まれて14キロほどの行程を楽しみました。
 さて、「山の辺の道」の起点は、三輪山の西南麓。古代には、海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)とも称せられたところです。 ここは道と道とが交わる要衝の地で、大和川(初瀬川)の水運を利用する河港でもあったので、文字通り水陸交通の要衝だったと思われます。ということで、大和朝廷が難波に遷都した時も、近江へ遷都した時も、三輪山の麓の、この「山の辺の道」が使われたのではないかと思うのです。大和平野の東側の山裾を走っている古道を、人々は住み慣れた飛鳥の地を離れる悲しみで心をみたしながら、新しい都へと向かったとの思いに駆られます。近江に向かう場合も、「山の辺の道」を通り、現在の天理市を経、奈良市の新薬師寺の辺りに出、般若坂を越え、木津川に沿って北上、宇治からやや東北の道をとり、逢坂(おうさか)山を越えたものと思われます。また難波を目指す時は、同じように「山の辺の道」を通り、奈良盆地を突っ切って、金剛山脈を越え、大和川に沿って行ったものと推測されます。
 三輪山は飛鳥人(あすかびと)たちから神が宿っているとして崇められた山です。その山の麓の道を、古代の人たちは、飛鳥の地を離れる日、長い隊列をつくって歩いていったのでしょうか。遷都の時ばかりではなく、第三十五代・第三十七代斉明天皇(女帝)の時に、半島へ出兵する兵団も、やはり同じこの「山の辺の道」を通った筈です。それから外国からの使節も難波と飛鳥の往復に、この道を通ったのでありましょう。このように考え巡らせて歩いていると、「山の辺の道」が万葉の古歌で織りなされていることを知って、万葉集に関係をもつ由緒ある古道としてのみ考えがちですが、ここは、飛鳥時代の立派な幹道であり、主要な往還であったことが改めてよく分かる気がいたしました。
 ここで思い出すのは、近江遷都の日の額田女王(ぬかたのおおきみ)の有名な万葉歌です。「味酒(うまざけ)三輪の山 あをによし奈良の山の 山の際(ま)にい隠(かく)るまで 道の隈(くま)い積るまでに つばらにも見つつ行かむを しばしばも見放(さ)けむ山を 情(こころ)なく雲の隠(かく)さふべしや」― われらの毎日眺めてきた三輪山が、美しい奈良の都を囲んでいた山々のあたりに隠れてしまうまで、新都へ向かう道の曲りで、何回でもよく見て行こう。遠くに眺めて行こう。どうして雲が心なく三輪山を隠すことがあろうか。反歌も、またいいのです。「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや」― なぜ三輪山をそのように隠すのか。せめて雲だけにも思い遣りの心をもってもらいたい。どうして隠すのであるか、という歌の心には悲しくも激しいものがあるように思われてなりません。恐らく近江遷都の日は曇っていたのでしょう。そして大和朝廷の首脳者たちを先頭に、いくつかの集団は「山の辺の道」を通り、そして三輪山と別れていったのでありましょう。
 妻と私はそんなことを思い浮かべながら三輪山の西麓を縫い、大神(おおみわ)神社、狭井(さい)神社、檜原(ひばら)神社跡、それから景行天皇陵、崇神天皇陵、長岳寺、手白香皇女(たしらかのひめみこ)陵の横を通り、左下手には倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の箸墓(はしはか)古墳や大和(おおやまと)神社の大きく深い木立を見ながら、漸く終着点の石上(いそのかみ)神宮の杜(もり)に立つことができました。

 この行程から分かることは、三輪山と石上、即ち、『古事記』や『日本書紀』がわが国の建国期の出来事として伝えている説話の中で、純粋・透明なイメージに裏付けられて度々描かれている大神神社と石上神宮の間には、初めてわが国を統治したという名をもつ第十代崇神天皇と、倭の五王の先駆的姿を偲ばせる第十二代景行天皇、その二人の陵が並置されているのに少々驚かされました。更にその南西には、ときに卑弥呼ではなかろうかとされる倭迹迹日百襲姫。北側には、遥か北の越(こし)の国に立って中原大和へ進出した第二十六代継体天皇の皇后手白香皇女。大和朝廷の早い時期において忘れることのできない女性二人の墓があるのです。これらは明らかに、わが国古代史の、その中でも最も早い混沌とした時期にあって、大和朝廷という一種の権力構造が形成されたあとを振り返る時に、少なくともイメージの上でその核となった神や権力者たちの遺跡の集まりを意味しているのでありましょう。この「山の辺の道」の一帯が、わが国の創世記を形づくる時に、その舞台としての役割を生き生きと果たした処であることが分かったような気がして興味は尽きませんでした。紙数の都合で、「柳生への道」は次回にご案内させていただきます。
 ところで、奈良(大和)とは深い縁のある聖徳太子が作成したとされる、あの有名な十七条憲法について、スペインの若き友キロスさん(パリ高等研究実習院(EPHE)博士、國學院大學研究員、静岡県立大学・横浜市立大学講師)が國學院大學の『日本文化研究所年報』に、「「コトをアゲツラウ」と「コトアゲ」は関係するのか?― 『日本書紀』の十七条憲法を中心に」というタイトルで、知的興奮を覚える大変興味深い論文を掲載しておりますのでお読みくださればありがたいです(前回の論文はvol.151をご参照ください)。極上の「知」のミステリーを読んでいるようなワクワクした気持ちになること請け合いです。他の研究者の論文も掲載されておりますので併せご一読ください。(なお、iPadをご使用のお方は、キロスさんの該当論文は45/100(40頁)~62/100(57頁)に載っております)
http://img.kokugakuin.ac.jp/assets/uploads/2017/03/05962d575a9de12dd3e8dbe92176d59d.pdf#page=45
 更に嬉しいことに、この度キロスさんは「フランス日本研究学会」(SFEJ、フランスにおける「日本学」を代表する唯一の総合的な学術団体)から、栄えある「Okamatsu Yoshihisa賞」を受賞され、昨年12月8日にパリ第7ドゥニ・ディドロ大学で表彰式が催されました。その時のキロスさんの受賞御礼メッセージ(仏文)が掲載されていますので併せお読みいただければと思います。http://www.sfej.asso.fr/spip.php?article278
 目下、キロスさんは國學院大學の「日本文化研究所」で、『古事記』の英訳にも精力的に取り組んでおります。
 
付記 今年もボルドーやパリから多くの年頭のご挨拶状が届きました。その中でリュル・サリュース伯爵(le Comte、<シャトー・ディケム>の前オーナー、現在は<シャトー・ド・ファルグ>のオーナー)は侯爵(le Marquis)の爵位を授与され、そしてご子息様ご夫妻が伯爵・伯爵夫人(le Comte, la Comtesse)を継がれ、皆様で妻と私をシャトー・ド・ファルグ(vol.103104105106をご参照ください)に再び招いて心から歓待したいとの大変嬉しいお手紙を頂戴しました。シャトー・オー・ブリオンのデルマス総支配人からも招待状が舞い込んでまいりました。そして、15年来、20年来そして30年来のフランスの友からは今年も夫々のご家族の近況が綴られたお手紙をいただき、改めて友情に国境はないことを確信し嬉しくなりました。友情は永遠なり!